中川 美苗・下
中川 美苗・下(86)
中川美苗さん(86)
爆心地から2・5キロの長崎市西山町2丁目(当時)で被爆
=長崎市西山2丁目=

私の被爆ノート

全身ケロイドの男児

2015年1月23日 掲載
中川 美苗・下
中川 美苗・下(86) 中川美苗さん(86)
爆心地から2・5キロの長崎市西山町2丁目(当時)で被爆
=長崎市西山2丁目=

私と南満州鉄道(満鉄)長崎支社長親子は、爆心地方面から命からがら逃げてきた若者集団と一緒に金比羅山を登った。途中、若者らは1人、また1人と力尽きていった。歩けなくなった人を待ったりしたが、このままでは日が暮れてしまう。「先に行くから、ゆっくり来なさいね」と言葉を掛け、泣く泣く置いていった。何人が生き延びただろうか。あの時を思い出すと今も悔しさと情けなさが込み上げる。後日、山のあちこちで死んだ人が身元の分かる名札だけを剥ぎ取られ、4、5人ずつ燃やされているのを見た。

西山町に戻った後、昼間は米軍機が低空飛行するため、支社長宅の近くの防空壕(ごう)で身を潜める日々が続いた。15日の玉音放送も壕で聞いたと記憶している。

同支社で働く女性職員の弟が8月9日に旧制瓊浦中(竹の久保町)へ行ったまま帰ってこないため、支社のみんなで市内の救護所を捜し回った。その時、勝山国民学校前で全身ケロイドだらけの男の子に会った。小学1年くらいに見えたが、真っ黒なやけどと黄色いうみに覆われ、まるで迷彩服のようだった。耳はなく目や鼻、口も判別できず、どちらが正面かも分からないほどだった。

同学校前の文房具屋のおばさんがふびんに思ったのか、鉛筆やノートを「持って行かんね」と差し出した。男の子はうれしそうに脇に抱えて学校に帰っていった。やけどで皮膚がはがれ鉛筆も握れないだろうに。ノートにどんな絵を描くのだろう。複雑な気持ちで後ろ姿を見送った。

女性職員の弟は結局、見つからなかった。

8月末、疎開している家族がいる大分に行くことにした。がれきの道を歩き、市役所から駅まで40分くらい要した。街には暑さで腐った死体や汚物のにおいが混じり合って漂い、鼻をついた。あのにおいも忘れられない。

駅で無賃乗車券をもらい大分へ。2年くらいは胃痛に悩まされた。9年後に結婚し長崎に戻るまで、教師として働いた。

若い世代に体験を話しても、十分に伝わらず、むなしくなる。「地獄」なんて言葉では到底言い表せない。それでも被爆70年の節目に何かを伝えるのが自分の使命と思っている。

<私の願い>

原爆投下はむごたらしい人体実験であり、絶対許せない。同時に日本の真珠湾攻撃も愚かな行為だ。現在の中国の軍拡を見ると笑えない。当時の日本の姿のように思えて情けなくなる。

若い人たちは被爆体験を聞いてもぴんとこないだろうが、戦争だけは絶対にいけないと伝えたい。

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