宮川アサノ
宮川アサノ(87)
宮川アサノさん(87)
爆心地から1・2キロの長崎市大橋町で被爆
=壱岐市勝本町本宮南触=

私の被爆ノート

「頑張ろう、頑張ろう」

2014年11月27日 掲載
宮川アサノ
宮川アサノ(87) 宮川アサノさん(87)
爆心地から1・2キロの長崎市大橋町で被爆
=壱岐市勝本町本宮南触=

当時17歳。古里の壱岐から女子挺身(ていしん)隊として動員され、三菱重工長崎兵器製作所大橋工場で働いていた。住吉の寮から通勤。あの日は空襲警報が1度鳴って、住吉のトンネル工場に避難したが解除後、大橋工場に戻り、安心して作業に取り掛かった。魚雷の最終仕上げ工程のため、モーターで磨きをかけていた。

急に「ビカーッ」と、ものすごい稲光。直後「ドカーン」と大きい音がした。もう、何が何だか分からない。爆風で体が舞った。「もう駄目だ」と思いながらも、耳と目をとっさにふさいだ。思わず「お母さん」と叫んでいた。建物は崩れ、周りの人は血だらけ。名前を呼び合っていたが、人のことに構っている場合ではなかった。頭、肩、足にけがを負いながら、避難先の住吉のトンネル工場に向かった。みんな着の身着のまま逃げていく。真っ黒に焦げた多数の人が道に転がっていた。顔も焦げて、誰が誰だか分からない。

途中、大きな川があって、たくさんの人が飛び込んでいた。川面は血と炭で染まっていた。寮のあった場所に着くと、私の名を呼び「水、水」と言う人がいた。しかし水があるわけでもない。「水をやると死ぬ」と言われていたので、知らない顔をして逃げるしかなかった。

トンネル内は8月なのに寒かった。背中合わせになってみんなで「頑張ろう、頑張ろう」と励まし合った。もらったおにぎりがありがたかった。

その後、被災したことを証明する書類を駅で発行してもらい壱岐に向かった。道ノ尾駅から汽車に乗車。記憶は定かではないが船に乗り換え、壱岐に着いたのは、8月13日。すぐ終戦を迎えた。復員して帰って来た兄は、私が長崎で原爆に遭ったと聞いていて「もう会えない」と思っていたらしく再会を喜んだ。

亡くなった人のことは今も思い出す。
<私の願い>

今まで、被爆体験を人に話す気になれなかった。子どもたちの健康に、何か影響があるのではないかと心配もした。今回のこの話は墓場まで持って行こうと思っていた。もう、二度とこういう事が起こらないように、ただお願いしたい。本当にお願いしかできないが、繰り返してはならないと思う。

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