朝長昭一郎
朝長昭一郎(84)
朝長昭一郎さん(84)
諫早市で救護被爆
=東彼東彼杵町駄地郷=

私の被爆ノート

死体とうめき声の駅舎

2014年11月6日 掲載
朝長昭一郎
朝長昭一郎(84) 朝長昭一郎さん(84)
諫早市で救護被爆
=東彼東彼杵町駄地郷=

当時、諫早の県立農学校(現県立諫早農業高)1年生で14歳。千綿村(現東彼杵町)の自宅から列車で通い、食糧増産のため学校で農作業に明け暮れていた。あの日、養蚕の桑畑に肥料を運ぶ途中、B-29が長崎方面に飛んで行くのが見えたが、空襲慣れしていて誰も避難していなかった。

しばらくして雷光よりもひどい光が目の前を覆い、少し遅れて「ドシン」と重たい音。長崎方向の空に赤みがかった黄色い入道雲のような雲ができ、慌てて防空壕(ごう)に隠れたが、爆音も聞こえないので数十分後には農作業に戻った。午後3時に学校が終わり下校。級友と諫早駅まで歩いている途中、ひどいやけどを負った人たちを戸板に乗せて向かって来る行列に出会った。「何事ですか」と聞くと「長崎が新型爆弾で全滅した。けが人を小、中学校に運んでいる」と教えられた。

駅舎の前で駅員から「水を飲ませるな。飲ませたら死ぬ」と注意された。ホームも地下通路も歩く隙間がないほどの数の死体とうめき苦しむ人たちでいっぱい。全身黒焦げの男子にズボンをつかまれ「君たちも同じ学徒だろう。水をくれ。うすき商業だ」とせがまれたが、どうすることもできなかった。その男子は大分県の臼杵商業の生徒だったのだろう。どうせ死ぬのなら水を飲ませてあげればよかった。今でも夢で思い出し、後悔で気持ちが沈むことがある。

自宅に向かう列車内で、「水、水」の悲痛な訴えやうつろな視線に耐え、千綿駅まで隅っこでじっとしていた。早く帰りたい一心だった。

19日には級友と2人一組で、全身が焼けただれたり、うじがわいたりした重傷者を担架に乗せ、諫早中から普通に歩いても30分かかる距離の海軍病院まで運んだ。3人目は病院に着いた時には亡くなっていて、疲れと恐ろしさで先生に「もう運べません」と告げた。

<私の願い>

もし地獄というものがあるのなら、苦しむ被爆者で埋め尽くされた諫早駅はまさに生き地獄だった。戦争は勝っても負けても、犠牲者と遺族を生むだけで、どちらにも利がない。兄が終戦前にビルマで戦死したが敵を討とうと思ったことはない。これ以上、悲しい記憶を増やしてはいけない。

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