宮原マサ子
宮原マサ子(85)
宮原マサ子さん(91)
爆心地から1・5キロの長崎市家野町で被爆
=西海市西彼町上岳郷=

私の被爆ノート

額に深い傷 一生悩む

2014年10月9日 掲載
宮原マサ子
宮原マサ子(85) 宮原マサ子さん(91)
爆心地から1・5キロの長崎市家野町で被爆
=西海市西彼町上岳郷=

当時21歳。勤め先の三菱長崎兵器製作所大橋工場で魚雷のモーターなどを組み立てる毎日だった。背後から青い閃光(せんこう)が走り、振り返った途端、気絶した。2、3時間経過しただろうか。目を開けると工場はめちゃくちゃに壊れていた。はだしでがれきを越え、曲がりくねった鉄骨をくぐり、工場を出た。

額からかなりの出血があった。エプロンを解き、額に巻き付けて線路を渡り、照円寺(清水町)近くの丘に向かった。がれきの下敷きになった人、黒焦げの人や馬も見た。倒れている人に「助けて」と足首をつかまれたが振り切った。逃げるのに精いっぱいだった。

丘で、同じ工場で働いていた弟と偶然会った。弟にけがはなかった。一緒に、枕木が燃えた線路沿いを歩き、西彼時津町浜田郷(当時は時津村)の実家を目指した。

わが家は長兄が日中戦争から復員後に体調を崩し結核で5月に死去。次兄がフィリピンで戦死したのも同月。母は新型爆弾で私たち姉弟も失ったと思い込み、一時半狂乱状態だったらしい。夕方、家に着くと爆風で窓ガラスが割れていた。母は私たちが無事との知らせを聞いて落ち着きを取り戻していた。毒消しに効くからとシロナンテンの葉をすって飲ませてくれたが、1カ月ほど下痢が続き、髪は抜け落ちた。

額の傷口は長さ約5センチで深く開いていたが、病院では命に別条ないとして縫合治療をしてもらえなかった。ひどい傷痕が残り、一生悩むことになった。いつも他人から傷を見られているような気がして、「どうしたの」と尋ねられるのも嫌だった。結婚話もあったが、傷があるので引け目を感じた。結局、結婚はせず、弟家族と暮らし74歳まで洋裁の仕事に励んだ。傷痕を隠すために前髪をなで下ろす癖は今も直らない。「原爆のせいで人生が狂った」。そんな思いが心の奥底にある。

<私の願い>

戦争は悲惨だ。あんなに恐ろしい爆弾をこれ以上落とされたら日本は滅びてしまうと思った。核兵器を世界からなくしてほしい。今の日本の若者は戦争がない時代に生まれたことだけで幸せと思うが、近ごろ、ひどい犯罪が相次ぎ発生しているのが気掛かり。安心でき、平和な日本を築いてほしい。

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