田代 一弘
田代 一弘(83)
田代一弘さん(83)
爆心地から2・6キロの長崎市東中町(当時)で被爆
=諫早市多良見町=

私の被爆ノート

空に巨大な光の輪

2014年10月2日 掲載
田代 一弘
田代 一弘(83) 田代一弘さん(83)
爆心地から2・6キロの長崎市東中町(当時)で被爆
=諫早市多良見町=

旧制県立長崎中(鳴滝町)の3年で14歳だった。同校は三菱長崎造船所の疎開工場として船の部品を作っており、私は特攻艇のエンジン部品を1日交代で飽の浦町の親工場へ運んでいた。

8月9日、空襲警報は午前10時ごろ警戒警報に切り替わったが、なぜか気乗りせず、昼食を済ませてから10分以上遅れて学校を出た。

大八車を引き、中町辺りを歩いていた午前11時ごろ、中空にオレンジ色か黄色の巨大な光の輪を見た。次の瞬間「カーン」という空気を引き裂くような異様な音が響き、台風のような強風とともに辺りが薄暗くなった。

「避難だ」。私は一緒にいた同級生ら7人に叫び、近くの側溝に身をうずめた。強烈な爆風が過ぎ去った約1分後、顔を上げて同級生らを確認すると幸い皆、無事だった。もし遅れずに出発していたら、爆心地に近い稲佐橋を渡っていたころだった。今でも命拾いしたと思っている。

被害状況を知りたくて近くの県防空本部(立山町)に立ち寄ると、大人たちが「新型爆弾では」などと話しているのを聞いた。不安になって学校に引き返し、先生の指示で同級生5人と長与経由で喜々津村の自宅へ帰ることにした。だが「新型爆弾の威力を見たい」という好奇心があった。西山を越え本原へ向かうと、すれ違う人々はやけどで皮膚がただれていた。自分がけがをしていないことに引け目さえ感じた。家に着いたのは午後8時ごろだった。

10日、出勤する父弘造と列車で長崎へ。道ノ尾駅で降り大橋付近まで歩くと、浦上川には水を求め亡くなった人が折り重なっていた。爆心地周辺には無数の遺体。踏み付けないように歩いた。死体は焼かれた上に暑さで蒸され、一帯は強烈なにおいが広がっていた。

15日、自宅のラジオで終戦を知った。我慢と緊張の日々から解放され、「やっと終わった」と力が抜けた。

<私の願い>

アメリカによるイラク空爆など世界情勢を見ると、戦争は本当に地球上からなくなるのかと心配になる。日本も集団的自衛権の行使容認が閣議決定されたが、絶対に戦闘する人、戦闘で殺される人をつくってはいけない。武力によるいがみ合いではなく、外交努力によって平和を実現してほしい。

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