瀬戸口孝次
瀬戸口孝次(83)
瀬戸口孝次さん(83)
爆心地から2・4キロの長崎市立山町で被爆
=長崎市立山4丁目=

私の被爆ノート

山肌に浮かぶ黒い影

2014年7月10日 掲載
瀬戸口孝次
瀬戸口孝次(83) 瀬戸口孝次さん(83)
爆心地から2・4キロの長崎市立山町で被爆
=長崎市立山4丁目=

戦後、長崎西高、長崎大経済学部をともに1期生として卒業し、1953年に長崎自動車(長崎バス)に入社。94年から6年間、社長を務めた。入社当時を振り返ると、運転手も事務職員もよく働いていた。休みは月に2日ほどだっただろうか。もちろん長崎の復興のため、との思いも強かったが、とにかくみんな精いっぱい生きていた。

14歳の夏。原爆投下後は地獄のような状況だったが、恐怖を通り越し、ぼうぜんとしていたことを覚えている。

8月9日。父や近所の大工と一緒に朝から立山の自宅近くの畑の隅に、木造の小屋を造っていた。戦況が激しくなったときに備え、荷物を分けて保管しておくためだ。半裸姿で休憩していた時、突然、稲妻のような光が走る。ドドッ-。爆風が吹き抜け、周囲の木々が倒れていった。金比羅山に守られたからか奇跡的に無傷。父は熱風で左腕にやけどを負った。

3日前に広島に新型爆弾が落とされたことは知っていた。同じものだと思い、高台にある自宅から下を眺めた。だが目の前は土ぼこりが舞い上がり、真っ白。状況は全く分からなかった。

夕方になり、金比羅山の向こうの空は浦上方面の炎で赤々としていた。山頂の高射砲隊の兵舎に担架で運ばれる負傷者。山肌はむき出しで、歩いて逃げてくる人々の姿が黒い影として浮かび上がっていた。

数日後、負傷者を学校の友人と長崎医科大付属病院(現長崎大学病院)から、長崎経済専門学校(現長崎大経済学部)の講堂に運ぶ救助活動を手伝った。バスに乗せるのは息のある人だけ。

病院横の空き地には、さまざまな死体があった。逃げる姿勢で黒焦げになった人、天を仰いでいる人、立ったまま死んでいる人もいたと思う。すべてが異様だった。緊張した空気が張り詰め、そこに恐怖感はなかった。
<私の願い>

安倍晋三首相の憲法改正の考え方は理解できる部分もあるが、憲法は今の状態が続くことが望ましい。原爆は恐ろしく、二度とあってはならないものだが、年月の流れとともに忘れられていってしまう。若い人たちは当時の実態を学び、世の中の風潮に流されない自分なりの考えを持ってほしい。

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