田崎 次男
田崎 次男(82)
田崎次男さん(82)
爆心地から3・3キロの西彼長与村高田郷(現長与町)で被爆
=長崎市横尾3丁目=

私の被爆ノート

体貫いた黄色い光

2014年5月29日 掲載
田崎 次男
田崎 次男(82) 田崎次男さん(82)
爆心地から3・3キロの西彼長与村高田郷(現長与町)で被爆
=長崎市横尾3丁目=

その時、視界が黄色い光に覆われた。まるで色紙を目の前に貼り付けられたように、すべてがまぶしい黄色。今思えば、それが原爆の放射線に体を貫かれた瞬間だった。

時津村国民学校高等科2年で13歳。当時、どこにでもいる軍国少年だった。1945年4月から学徒報国隊として働き、道ノ尾駅近くの軍需工場で機関砲の部品を作っていた。

工場には旋盤機械などがあり、女学生らも働いていた。夏になると屋外作業は男子に任されるようになり、8月9日は暑い日差しの中、上半身裸で草取りをしていた。

休憩時間で日陰に入ろうとした時だった。ピカッと光が差した瞬間、すさまじい熱を肌に感じ、工場に駆け込んだ。次いで、ドーンという大きな音。近くにあった板の下に潜り込むと、雨のように瓦やガラス片が降り注いできた。

長崎の空に、黒いきのこ雲が立ち上っていた。うわさに聞いた「空中爆弾」だと思い、同級生と近くの山に向かった。途中、両手両足と左胸に痛みを感じ、初めてやけどに気付いた。卵大の水膨れが垂れ下がっており、頭の中は悔しさや怒りでいっぱい。「こんちくしょう米英め。今にみとってみろ」とつぶやきながら走り続けた。

その後、ふもとにあった家のわらぶき屋根が燃えだすのが見えて慌てて山を下りた。同級生と、はぐれてしまったが、自転車で迎えにきた担任の先生に村の病院へ連れていってもらった。

院内は長崎方面から逃げてきた全身やけどの患者でいっぱい。「水を」とうめく声と、医者の「やるとだめだ、死ぬぞ」と怒鳴る声が交錯し、修羅場だった。

やけどからうみが出てハエが寄り付くため、敗戦の玉音放送は自宅の蚊帳の中で聞いた。「徹底的に報復してやる」と思っていたのに、それもかなわない。ただただ脱力感だけが残った。

<私の願い>

子どものころは健康が自慢だったが、被爆後は肝硬変などさまざまな病魔に襲われるようになった。10年ほど前からはこうした個人的な事柄も含め、地元の小学校で講話している。長く人を苦しめる核兵器の廃絶に一歩でも近づいていけるよう、子どもたちに被爆体験を語り続けていきたい。

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