有馬紀美子
有馬紀美子(80)
有馬紀美子さん(80)
爆心地から1・8キロの長崎市東北郷(現・住吉町)で被爆
=長崎市住吉町=

私の被爆ノート

「水ば」息絶えた姉妹

2014年4月17日 掲載
有馬紀美子
有馬紀美子(80) 有馬紀美子さん(80)
爆心地から1・8キロの長崎市東北郷(現・住吉町)で被爆
=長崎市住吉町=

当時、西浦上国民学校の6年生。東北郷の自宅の軒下で近所の下級生の女の子と話していた時。突然、あらゆる窓から光が入ってきた。いつもは薄暗い父の書斎が明るく見えた。「うわっ」と思った瞬間、気を失った。

息苦しくて目が覚めた。口の中に砂が入ってざらざらしていた。体の上に材木がのしかかっていたが、運良く隙間にいて助かった。一緒にいた女の子は頭や顔が血だらけだったので、町内の防空壕(ごう)に連れて行った。近くに爆弾が落とされたと思っていた。

倒壊した自宅に戻ると、「きみこちゃん」と私を呼ぶ声。母だった。全身にやけどを負い、顔が真っ黒で、髪がちりちりだった。衣服からは煙が出ていた。別の服を母に急いで着せて、壕に逃げた。道路は馬や牛がぞろぞろと歩いていた。

壕の前には、年下の女の子2人がうつぶせに寝かされていた。近所の家に疎開していた姉妹だった。下着1枚で背中が焼けていた。「じいちゃん水ば、じいちゃん水ば」。泣き声で何度も言いながら亡くなった。苦しそうな顔が忘れられない。

壕の入り口には、赤ちゃんを抱っこした若い女性もいた。左半身をやけどし、赤ちゃんが左の乳を吸うと「そっちは痛かとよ」と話し掛けていた。しばらくして上半身裸の夫が帰って来た。夫婦は抱き合い「生きとって良かった」と泣いた。しかし、夫婦は市外から来た親族に赤ちゃんを託し、いつの間にか亡くなっていた。遺体には布団が掛けてあった。

私と姉は寝る間もなく、一緒に母の看病を続けた。母は体の皮膚がはがれ筋が見えていた。少しでも動かすと、ピンク色の液体が流れ、痛がった。

翌年1月、母の体調が良くなったころ、私は歯茎から血が出て、ご飯が食べられなくなった。周りからとても心配されたと聞いたが、自分は全く覚えていない。

<私の願い>

戦争は嫌だ。世界中の戦争をニュースで知ると、その国の子どもたちが本当にかわいそうで胸が痛くなる。今の日本は幸せだ。しかし、世界情勢を見れば、また戦争を始めるんじゃないかと不安になる。孫たちがあんな思いをしたらいけない。国同士、仲良く話し合いをしてもらいたい。

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