大川ヤイ子
大川ヤイ子(85)
大川ヤイ子さん(85)
大村市で救護被爆
=長崎市春木町=

私の被爆ノート

背中に無数のうじ虫

2014年1月23日 掲載
大川ヤイ子
大川ヤイ子(85) 大川ヤイ子さん(85)
大村市で救護被爆
=長崎市春木町=

当時、長崎師範学校女子部(大村市)の本科1年で17歳。男性と手をつないだこともない純真な少女だった。

8月9日の昼すぎ、普段はやさしい寮監長の外山三郎先生らが、厳しい顔つきで私たちにおっしゃった。「けがをした男子部(旧長崎市家野郷)の生徒が運ばれてくる。さっきのごう音を聞いたろう。長崎にも新型爆弾が落ちたのだ」

同日夕、数人の男子部生が女子部の明鏡室(畳敷きの広い部屋)にたどり着いた。黒褐色に焼けただれた背中には、既にうじ虫が湧いていた。むごいと思ったが、この人たちはまだ軽傷。重傷者を含む大半の男子は、10日に列車で来ることになっていた。

列車は結局、11日に岩松駅へ着いた。歩ける人もいたが、重傷者は悲惨そのもの。五体こそ保っていたが黒っぽく、所々で血がにじみ、顔には生気がなかった。重傷者は担架で大村海軍病院へ、軽症者は肩を貸して回生病院、明鏡室や校医の西川茂先生の自宅に運んだ。明鏡室は100人近い男子部生で足の踏み場もない状態になった。うめき声とハエの羽音が響いていた。

担当した男子部生の背中には、匙(さじ)でえぐられたような凸凹があった。むき出しになった肉からは無数のうじ虫が湧いていた。取り除こうとすると、箸先から虫の動きが伝わった。

慎重に取っているのに男子部生は苦痛でうめいた。ただ淡々と、うじ虫を取り続けた。腕が痛くなっても。人間らしい会話もせず。こうして私の17歳の夏は過ぎていった。

68年がたった。原爆犠牲者を供養すれば少しは安らげると思い、8月9日に自宅周辺に水をまいたこともあった。それでも、あの記憶は消えない。

「本当はあの時、背中をなでて慰めてあげたかったんだ」。できるはずもなかったことを、悔いている。

<私の願い>

たくさんの犠牲を払ったあの夏を、日本は忘れてしまったのですか。特定秘密保護法の成立などに、こう思います。表面だけ、良い部分だけしか知らせないというのなら戦中と同じ。私には、かわいい孫やひ孫がいます。50年後も平和な世界を残したいと願い、被爆体験を語りました。

ページ上部へ