中村 豊
中村 豊(84)
中村豊さん(84)
入市被爆
=西彼長与町吉無田郷=

私の被爆ノート

海に流れる遺体多数

2013年12月5日 掲載
中村 豊
中村 豊(84) 中村豊さん(84)
入市被爆
=西彼長与町吉無田郷=

当時、旧制海星中4年で16歳。西彼香焼村(現長崎市)の川南造船所に学徒動員されていた。朝からの空襲警報で防空壕(ごう)に避難したが、解除され、誘われて数人で先輩の社宅へ行った。

窓際に座り、お茶を飲もうとした。窓の外に強い光が見えた。数秒後、ドーンという大きな音。家が揺れた。強風が吹き込み、新聞紙などが吹き飛んだ。近所が爆弾でやられたと思った。様子を見るため、1人で近くの山に登った。長崎の方向に大きなきのこ雲がはっきりと見えた。雲の下の方は赤く染まっていた。

工場に戻ると、帰宅命令が出ていた。自宅は稲佐町1丁目。香焼から船で自宅近くの旭町の桟橋に向かおうとしたが、昼の便に乗り遅れた。夕方の便で長崎港に入港しようとしたとき、船から20~30メートル離れた海面に子どもがうつぶせで浮いていた。しかし、船長は無言。遺体を引き揚げようともしなかった。「何でこの船長は助けんとね」と疑問だった。

桟橋に着くと、自宅まで歩いた。人影がなく、不気味だった。瓦が飛んだ家は、道路に覆いかぶさるように倒れ、馬がつぶされて死んでいた。自宅も、玄関が家の中にめり込み、入れる状態ではなかった。母が顔にやけどを負っていたが、父も含めて無事だった。「浦上に新型爆弾が落とされた」と聞いた。

10日朝、自宅近くの海岸にいると、引き潮で、たくさんの遺体がゆっくりと流れてきた。性別は分からなかったが、50人はいただろう。恐怖心よりも、このまま海に流されるのはかわいそうだと思い、縄で輪を作って投げ、遺体の手や足に引っかけた。その縄を電柱にくくり、警察を呼んで3人だけ遺体を引き揚げることができた。

2、3日後、爆心地に近い竹の久保に住む親戚のおじさんを訪ねた。無傷で元気そうだったが1週間後、血を吐いて亡くなった。

<私の願い>

原爆を使ってはいけないのはもちろん、それ以前に戦争を避けなければいけない。教育とは恐ろしいものだ。教育次第で戦争に走る人間がつくられる。自分も子どものころ、戦場に行って手柄を立てる人が立派な国民だと思っていた。二度と子どもたちにこのような考えを持たせてはいけない。

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