島田 實
島田 實(89)
島田實さん(89)
爆心地から3キロの、長崎市元船町3丁目の桟橋に係留していた船内で被爆
=島原市白山町=

私の被爆ノート

ごう音響き船体揺れる

2013年11月28日 掲載
島田 實
島田 實(89) 島田實さん(89)
爆心地から3キロの、長崎市元船町3丁目の桟橋に係留していた船内で被爆
=島原市白山町=

島原で漁業をしていた20歳の時、徴兵検査で甲種合格となった。漁船のエンジン操作は経験があると申告したところ、海軍に配属された。

横須賀海軍工機学校を経て、佐世保海兵団に異動。佐世保海軍運輸部付となり、徴用船の調達を任務とした。漁船などに機銃台を取り付けて軍用に改装するのだが、米国との戦力差は歴然。この戦争に勝ち目はないと思っていた。

あの日は長崎港で上官ら約20人と徴用した船にいた。第8号源心丸というイワシ船で、佐世保に運ぶ段取りだった。桟橋には同じような徴用船が約10隻係留されていた。

1人、甲板下の機関室にいた時だった。甲板に上がる階段から一瞬、熱い閃光(せんこう)が差し込んだかと思うと、「ドカーン」というごう音が鳴り響き、船体が激しく揺れた。慌てて甲板に駆け上がった。干していた洗濯物のうち、熱線を吸収してか国防色の作業着だけが燃えていた。仲間たちはあまりの熱さに海に飛び込み、顔は水ぶくれ。全身大やけどを負った1人が、「助けてくれ」と甲板で苦しみもだえていた。

長崎駅方面から県庁方向に、猛火が手を延ばしてくるのが船上から見えた。誰かが「焼夷(しょうい)弾が落ちたんだ」と言った。だが、目の前の出来事が焼夷弾では説明できないことは明らかだった。私も機関室に差し込んだ熱線で右手をやけどし、下痢が1週間続いた。

2、3日後、上官から徴用船の調達に口之津(南島原市)に行くように命じられ、上陸し、長崎駅に向かった。街は焼け焦げ、死骸の山。あの惨状は忘れられない。乗換駅の諫早駅は、逃げてきたたくさんのけが人であふれていた。

ようやくたどり着いた島原の実家で敗戦を知った。私は横須賀、佐世保で大空襲を経験し、長崎で原爆に遭った。生き延びたのは奇跡だと思う。

<私の願い>

佐世保大空襲の時、上官は「おまえたちは兵舎を守れ」と言い残し、自分たちだけ防空壕(ごう)に逃げた。軍隊生活では毎日のように理不尽に殴られ、つらく、苦しかった。戦後は古里で漁業を再開した。平和な世の中であればこそと思う。戦争、原爆は絶対に繰り返してほしくない。

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