牛津アキヘ
牛津アキヘ(93)
牛津アキヘさん(93)
入市被爆
=長崎市岩屋町=

私の被爆ノート

尿でやけど治療する人々

2013年10月24日 掲載
牛津アキヘ
牛津アキヘ(93) 牛津アキヘさん(93)
入市被爆
=長崎市岩屋町=

8月9日、長崎市四杖町の夫の実家にいた。夫の出兵先さえ分からず、空を眺めて身を案じていた。青く澄んだ空だった。当時25歳。1歳の長男副武(そえむ)を女手一つで育てていた。

爆発音が響き、空がだんだんとどす黒い雲で覆われた。衝撃は感じなかった。やがて「爆弾が落ちた」と叫び声が聞こえ、人々が逃げてきた。ジャガイモの皮がむけたように顔や腕の皮膚がただれ、服はぼろぼろ。化け物のようで直視できなかった。

真っ先に頭に浮かんだのが義姉、豊子の安否。この日の午前8時ごろ、松山町の家に帰って行ったばかりだった。西北郷の実家には母もいた。捜しに行きたかったが、消防団員に止められ翌日を待った。

10日、皮膚が焼かれないように手袋、防災ずきん、長袖姿で副武を背負い、西北郷の実家に歩いて向かった。ただただ暑かった。実家裏の竹やぶで、尿をやけどの部分に塗り、治療しようとする人々がいた。何とも言えない悲しみが込み上げてきた。

再会した母は頭から血を流しており、疲弊しきった表情。傷ついて痛々しい姿に再会のうれしさは消えた。

11日、松山町の義姉の家は跡形もなかった。夫の弟が、座ったまま白骨化した義姉の遺骨を見つけ、四杖町の実家に持ち帰った。

爆心地周辺では、あちこちで死体を重ねて火葬していた。その光景と鼻を突く臭気は脳裏に焼きついている。今でも焼き魚の臭いで記憶がよみがえり、嫌気が差す。

西北郷で母と終戦を迎えた。夫は鹿児島から帰郷したが病を抱えており、貧しさは変わらなかった。長い間、戦争に翻弄(ほんろう)されたと思う。幸せを実感できたのは夫婦でゆっくり旅行に出掛け始めた57歳から。夫は亡くなったが幸せな思い出が私を支えてくれている。

<私の願い>

日本は尖閣諸島や竹島など領土問題を抱えているが、まずはお互いの国がしっかりと話し合う機会を持ってほしい。特に若い世代には、海外旅行などで行き来が増える中、国の習慣を超えて譲り合い、平和な世界を実現する道を探してほしい。戦争や核のない世界を心から望んでいる。

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