池邊 翠
池邊 翠(85)
池邊翠さん(85)
救護被爆
=諫早市八天町=

私の被爆ノート

うめき声上がる列車

2013年10月17日 掲載
池邊 翠
池邊 翠(85) 池邊翠さん(85)
救護被爆
=諫早市八天町=

諫早駅には、約100人の動員学徒らが長崎から来る列車を待ち構えていた。9日夕、ホームに入ってきた列車には、うめき声を上げるおびただしい数の負傷者が乗っていた。竹を編んだ担架を持ち、列車の中に入った。県立諫早高等女学校の救護活動は、こうして始まった。

当時、同校専攻科の17歳。大村市の第21海軍航空廠(しょう)発動機部に動員され、発動機の部品を作る工場で働いた。工場は1944年10月の爆撃で閉鎖。11月から諫早市の四面橋近くに工場が移り、私は生徒隊長として学徒をまとめていた。

駅から負傷者を担架に乗せて、近くの諫早海軍病院まで何度も往復。運ぶ途中、負傷者の多くが「担架の竹の節目が皮膚に当たり痛い」と訴えた。仕方なく途中で降ろし、肩に担いで歩いた。負傷者には男性もいたが、現場のただならぬ状況に、重さやつらさを忘れて担ぐことができた。

夜になると、私は自宅に帰るため小江駅まで列車に乗った。座席には負傷者のものであろう、得も言われぬ臭いがこびり付いていた。家に帰って服は全て捨てた。

10日は学校に呼び出された。そこにも多くの負傷者が横たわっていた。私は負傷者の名前などを聞いて回り、名簿を作った。病院内には肩の皮膚が溶け、むき出た筋肉がピクピク動いている男性などがいた。痛そうだと思った。

11日から、医師に付き負傷者の手当てをした。医師は垂れ下がった皮膚をはさみで切り取り、油のような薬を筆で塗った。負傷者は感覚がまひしたのか、皮膚を切られても叫んだりすることはなかった。私は医師に言われるまま、顔に薬を塗った人に目と鼻と口の部分を切り抜いたガーゼを貼った。異様な臭いと疲れから、そっと部屋の外に出た。負傷者は次々と息絶え、遺体は警備隊がどこかへ連れて行った。

<私の願い>

年をとるたび、昔のことを忘れていく。死んだ同級生らも多く、戦争や原爆の記憶の風化を防ぐため2005年、私の戦争体験をまとめた「私達の歩み」を手作りし、同級生に配った。若い人には、戦争を人ごとだと思わず、私たちの代わりに戦争や被爆の怖さを今後伝えていってほしい。

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