上野 俊之
上野 俊之(77)
上野俊之さん(77)
爆心地から6・0キロの時津町浜田郷で被爆
=西彼時津町久留里郷=

私の被爆ノート

両親「見るんじゃない」

2013年9月26日 掲載
上野 俊之
上野 俊之(77) 上野俊之さん(77)
爆心地から6・0キロの時津町浜田郷で被爆
=西彼時津町久留里郷=

1945年の春、小学4年生になった。両親、きょうだい3人と長崎市西坂町に暮らしていた。7歳上の長兄は海軍予科練を志願し家を出ていた。志願のことを両親と話し合っていた情景が記憶にある。その後、配属された基地から私の通う学校宛てに「皆さんも頑張って」という手紙が届き、校庭で全校生徒に紹介された。晴れがましい気持ちがした。

長崎市内も空襲が頻繁になっていた。夜、稲佐に焼夷(しょうい)弾が落ち、火が広がった光景がとても怖かった。防空壕(ごう)の中で、いつ爆弾が自分の頭に落ちてくるかと震えていた。

両親は「子どもがかわいそう」と思ったのだろう。5月に西彼時津町浜田郷の母の実家へ、全員疎開することになった。

近所の家の庭で、弟と遊んでいた時、ピカーッと光った。黄緑色の光線だった。当時教えられていたとおり、無意識に身を伏せ、目を押さえた。同時にドーンとすごい音。辺りは土ぼこりで何も見えない。

弟に声を掛け、萬行寺そばの防空壕へ走った。家族も、近所の人も集まってきた。長崎の空を見上げると、きのこ雲が立ち上っている。あまりのすごさに、爆弾による雲とは思いもしなかったが「あれが新型爆弾じゃないか」の声がした。家に戻ると窓ガラスは割れ、畳はめくれ上がっていた。

その後長崎方面から、トラックでけが人が寺の本堂に次々と運ばれてきた。頭や胸が焼けただれた人。血をだらだら流す人。親から「あんまり見るんじゃない」としかられた。夜になると、50メートルほど離れた自宅まで「痛いよー痛いよー」という声が聞こえてきた。

長兄は一度特攻に出たが、目標が敵艦ではないことが判明し、命拾いしていた。終戦後すぐ西坂の家に戻り、時津まで歩いて帰ってきてくれた。その長兄も50歳ぐらいの若さで、白血病で帰らぬ人となった。

<私の願い>

現在の政治は少しばかり右に傾いているのではないか。あの戦争を振り返ってみて、あんなことにつながる政治を二度としてはならないと思う。中国、韓国とは、もっと話し合っていく必要がある。太平洋戦争にしても、もっと話し合いを尽くしていれば、やらなくても済んだかもしれない。

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