中川 豊子
中川 豊子(83)
中川豊子さん(83)
入市被爆
=佐世保市桜木町=

私の被爆ノート

玉音聞き「犬死にか…」

2013年9月5日 掲載
中川 豊子
中川 豊子(83) 中川豊子さん(83)
入市被爆
=佐世保市桜木町=

当時15歳。私立長崎女子商業学校4年生だった。学徒動員令で生徒は皆、市内の軍需工場で勤労奉仕。私は川南工業香焼造船所で事務職として働いていた。実家は千馬町(現出島町の一角)で材木商を経営。父母と3人暮らし。8月9日は疎開を兼ねて油木町に新築した家へ引っ越す日だった。朝、出勤前に両親から「新しい家に帰るように」と告げられた。

勤務先から近くの事務所に書類を持参。入り口に入った瞬間、激しい閃光(せんこう)が走った。ピンク、白、紫と次々に光が変化。ごう音が「ドーン」と体に響いた。防空壕(ごう)へ向かいながら見た空は真っ黒な幕を張ったようだった。

家に帰るよう午後2時ごろ促され、千馬町の自宅へ。父母の姿はなく、親戚宅に寄ったり、火災から避難したりしながら新居に向かった。夜、下大橋にたどり着き、父の友人の村川さん宅に立ち寄った。村川さんは奥さんと10人の子どもがやけどで苦しんでいたにもかかわらず同行してくれた。

新居近くに着いたが家は焼けて何もない。村川さんが大声で「中川さん」と呼ぶと、足元で「はい…」と声がした。暗闇で気付かなかったが父だった。服はぼろぼろで顔はすすを塗ったように真っ黒。体がガタガタと震えた。近くの畑では母と叔母がうずくまっていた。顔はやけどでパンパンに膨れナスビ色。腫れた肉で目や鼻や口も隠れている。口調もはっきりせず、どうしていいか分からず大声で泣き叫んだ。

父母を千馬町までリヤカーで運び、近くの壕で過ごした。15日、父は玉音放送を聞いて「みんな犬死にか…」とポツリ。翌日、顔の皮膚のはげた部分に薬を塗ってあげていたら、じっと一点を見つめ「母の言うことをよく聞くように」とつぶやき、息を引き取った。命を取り留めた母も顔のやけどがふびんで、しばらく鏡を見せることができなかった。

<私の願い>

戦争につながりかねない憲法改正の動きが気にかかる。今の政治家たちは戦争のことをまるで小説や映画のように話す。原爆で人生を狂わされた人々の惨状を本当に知っているのか。戦争は絶対にいけない。憲法を守り、平和な世界が続くことを祈る。

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