池原田鶴子
池原田鶴子(82)
池原田鶴子さん(82)
爆心地から1・1キロの大橋町で被爆
=西海市西彼町上岳郷=

私の被爆ノート

背中に無数のうじ虫

2013年8月29日 掲載
池原田鶴子
池原田鶴子(82) 池原田鶴子さん(82)
爆心地から1・1キロの大橋町で被爆
=西海市西彼町上岳郷=

当時14歳、長崎市の西坂国民学校高等科の2年生。西坂町の自宅から学徒報告隊として大橋町の三菱長崎兵器製作所大橋工場に通う毎日だった。魚雷の部品をやすりで磨いていると突然、ピカッと閃光(せんこう)が走り、とっさに目と耳をふさいで床に伏せた。

気が付くと建物は倒壊し背中にがれきがのし掛かり、動くことができなかった。「助けてください」と叫んでいたら工場の組長が見つけてくれた。助けを求める女性の声が聞こえたが振り返らず、崩れた塀を乗り越えて西町近くの田んぼの中に避難した。空が柿色に染まっており、恐ろしかった。両肘などをけがして出血していたが、痛みは感じなかった。

線路をたどって家に帰ろうと歩きだした。途中、擦れ違う人がいた。「この人は何でぼろ布を着ているのだろう」。よく見ると、ぼろ布と思ったのは焼けただれて垂れ下がった皮膚だった。顔は大きく膨れ、髪の毛はない。ほとんどの人がやけどを負い、服は破け、「水、水」と言っていた。黒焦げの死体が転がり、牛や馬は体がパンクしそうなほど膨れて倒れていた。

靴をなくし、足の裏をけがしていた。焼け野原の地面は熱く、休み休み長崎駅方面に向かって線路を歩いた。本蓮寺近くでは、周囲の家々から上がる炎を避けて墓地をよじ登り、10日午前3時ごろ西坂町の自宅に着いた。母が「とても生きていないと思っていた」と喜んだ。

7人きょうだいの一番下の6歳の弟は、自宅近くで被爆し、顔や腕に大やけどを負っていた。母に背負われた弟と1週間、飽の浦町の三菱病院に通った。途中、放置された死体から悪臭がしていた。病院は薬を切らし、患者の傷口にはうじがわいていた。弟は、真っ赤に焼けた腕を覆ったガーゼを医師が取り換える際、痛みで大暴れしたので、母と私で動かないよう体を押さえ付けた。

<私の願い>

原爆による地獄のような光景が目に焼きついて離れない。弟はやけどを負った頭に髪が生えそろわず、高校では同級生から「かっぱ」と呼ばれ、傷ついていた。私は30代から背中と腰の痛みに悩まされた。がれきの下敷きになったせいかもしれない。悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない。

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