高谷 英二
高谷 英二(81)
高谷英二さん(81)
爆心地から1・8キロの長崎市御船蔵町で被爆
=長崎市本尾町=

私の被爆ノート

一瞬の光 音は聞こえず

2013年6月6日 掲載
高谷 英二
高谷 英二(81) 高谷英二さん(81)
爆心地から1・8キロの長崎市御船蔵町で被爆
=長崎市本尾町=

当時は13歳で、旧制東陵中(現・長崎南山高)2年生。学徒動員で三菱長崎造船所に行き始めて1週間か2週間ぐらい。あの日は昼からの勤務だったので、建物疎開で壊された家屋跡から材木を拾ってきて、午前中は御船蔵町の自宅の庭でげたを作っていた。

今、宝町のホテルがある場所に火の見やぐらがあり、敵機襲来を知らせる半鐘が鳴った。「あっ」と思った途端、「ぴゅー」と何かが急降下する音が聞こえた。敵機と思った。当時、白いシャツは機銃掃射に狙われると聞いていて、白い半袖の肌着だったので「しまった」と思い、床下に飛び込んだ。同時に「ぴかー」と光った。音は聞こえなかった。原爆をピカドンと言うが、爆発音は全然分からない。光った後は真っ暗。何も見えない。自分は死につつあるのかなと思った。

しばらくしてから、自然にぱあっと明るくなった。家の中はめちゃくちゃ。何もかも。倒壊こそしなかったが、壁から何からみんな倒れていた。家にいた母と兄、近所に遊びに行っていた妹にけがはなかった。西坂町の山の方まで逃げて、一晩を過ごした。その後、自宅の周りは燃えて、翌朝下ってきたら焼け野原だった。

長崎医科大に勤めていた父は、10日になっても帰ってこなかった。11日に母と一緒に大学に行き、この辺かなと思う所を捜しても何もなかった。父が働いていた部屋のそばにあった講堂跡には、いくつもの頭蓋骨が並んでいた。結局、父は見つからず、行方不明のままだった。

今、長崎大歯学部に通じる坂があるが、当時は坂の下辺りに死体を集めて山のように積んでいた。近くではにぎり飯の炊き出しをしていて、においが混じり合ってたまらなかった。あそこを通るときは今でも「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と言いながら通り過ぎる。

<私の願い>

核兵器は絶対反対。アメリカはなくすと言いながら、まだ実験をしている。あれはおかしい。反対なら絶対に造らないようにしないと平和は来ない。戦争はしてはならない。そうしないと、本来あるべき人生が正反対になってしまう。

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