徳田 勉
徳田 勉(83)
徳田勉さん(83)
爆心地から2・3キロの長崎市住吉町で被爆
=松浦市福島町=

私の被爆ノート

人の住む世界ではない

2013年5月30日 掲載
徳田 勉
徳田 勉(83) 徳田勉さん(83)
爆心地から2・3キロの長崎市住吉町で被爆
=松浦市福島町=

当時16歳。福島村の実家を離れ、三菱長崎兵器製作所大橋工場に勤務。旋盤で魚雷の部品を作るのが仕事だった。8月9日は普段と異なり、住吉町の同製作所住吉トンネル工場での勤務だった。

トンネル内で作業をしていると、雷のようなドカンという音がした。爆弾だと思ったが、奥にいたため外の様子は分からなかった。しばらくすると、トンネル近くにあった住吉寮から血まみれの女子工員が何十人と逃げ込んできた。

30分ほどトンネル内で待機した後、外に出てみると大橋方面は黒い煙が立ち込めていた。居ても立ってもいられず、当時暮らしていた坂本町の山王寮に仲間2、3人と一緒に向かった。線路には避難する人たちの列が連なり、逆らうように歩いた。その先は、爆心地の方角だった。

大橋付近まで来ると、一面焼け野原。辛うじて残るコンクリートの建物には助けを求める人たち。「水をくれ」と何度もせがまれた。浦上川は多くの死体が浮き、客を乗せたままごうごうと炎を上げる路面電車も目撃した。人の住む世界とは思えなかった。

山王寮は跡形も残っておらず、トンネル工場に戻って岩肌から染み出る水でのどを潤し、一夜を過ごした。翌日は大橋工場に呼び出され救護を手伝った。道には遺体が転がり、列車にも無数の遺体が積まれていた光景が今も目に浮かぶ。

3日目の朝、福島や松浦出身の5、6人で「もう田舎に帰ろう」と話し合い、山を越えて長与駅に向かった。駅長が「これで帰れ」と渡してくれた押印された紙切れを切符代わりに、早岐駅まで列車に乗せてもらい、そこから3日間歩いて福島に帰った。

帰郷後に歯茎から血が出た。最近は心臓に病気を抱えている。あの日、偶然にも住吉トンネルにいて命は助かったが、原爆の影響は避けられなかった。

<私の願い>

被爆したことに負い目や恥ずかしさを感じ、これまで誰にも話せなかったが、伝え残した方がいいと思い、初めて話した。原爆は一瞬で全てを奪う。あの日の光景を見れば誰もが戦争は間違いだと気付くはずだ。今、若い人たちが核廃絶を訴えているが、もっと国として腹の底から訴えてほしい。

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