谷口 大悟
谷口 大悟(77)
谷口大悟さん(77)
爆心地から4キロの長崎市稲田町で被爆
=長崎市諏訪町=

私の被爆ノート

突然の光 身を伏せる

2013年4月4日 掲載
谷口 大悟
谷口 大悟(77) 谷口大悟さん(77)
爆心地から4キロの長崎市稲田町で被爆
=長崎市諏訪町=

ピカッと光ったので、とっさに伏せたのは覚えている。でも音は記憶がない。 当時9歳、仁田国民学校の4年生。夏休みで、坂の中腹にある自宅の縁側に1人でいた。その1週間くらい前、近所に爆弾が落ちたからだろう、「敵機にやられた」と思って、すぐに近くの防空壕(ごう)に駆け込んだ。幸いけがはなく、母と2年生の弟も無事だった。自宅に戻ると壁が落ちていて、その後雨漏りがひどかった。

夕方、街を見下ろすと燃えていた。全身真っ白な人が茂木の方へ向かって階段を上ってきた。けがをしているようだったが、それが包帯なのか、ペンキのような塗り薬だったのかは分からない。ただ怖かった。

その日、父は帰ってこなかった。「恐ろしい爆弾が落ちて浦上は全滅らしい」。そんなうわさが流れた。父は茂里町の三菱長崎製鋼所で働いていた。建物の中にいて奇跡的に手の甲をけがしただけで助かった。翌日帰宅し、さらに次の日、爆心地に近い平野町に住んでいた伯母を捜しにいったが、もんぺの模様で遺体を確認するしかなかったそうだ。

敗戦の日、「進駐軍がやって来る」と聞いて、まだ夜が明けないうちに父と一緒に自宅を出て、長崎市北部の黒崎へ歩いて向かった。電車通りは焼け野原、がれきの山。あちこちで木を組んで遺体を載せて焼いていた。早くここを通り抜けたい-それしか考えられなかった。

終戦後はいい思い出が何もない。父が病弱で母も働き始め、イモあめやおもちゃを売り、とにかく食べていくのに精いっぱいだった。7年後、長崎工業高を中退して郵便局に就職した年に父は肺結核で亡くなった。自分自身は被爆して間もなくは歯茎から血が出たり、髪の毛が抜けたが、その後は大きな病気もなく、定年まで勤めることができた。

<私の願い>

米国は原子爆弾なんて造るべきでなかった。人間は体験してみないと分からないことがある。あのような悲劇は二度と繰り返してはならない。今の世の中は物があふれ、子どもたちは幸せそうだが、核兵器はまだたくさん残っている。核兵器をなくし、何よりも平和を大事にしてほしい。

ページ上部へ