松永ツル子
松永ツル子(82)
松永ツル子さん(82)
入市被爆
=佐世保市指方町=

私の被爆ノート

焼け野原にがくぜん

2013年3月21日 掲載
松永ツル子
松永ツル子(82) 松永ツル子さん(82)
入市被爆
=佐世保市指方町=

長崎市緑町で5人きょうだいの長女として生まれた。福岡市の伯母夫婦に子どもがおらず、私は小学4年で養子に行った。

伯母は軍人相手に福岡で下宿を営んでいたが、1945年に下宿を佐世保へ移転。14歳の時だった。8月9日は、佐世保でラジオや軍人らの話から「大きな爆弾で長崎がやられた」と知り、母や妹弟のことが心配だった。父は出征していた。

列車で移送された被災者が早岐国民学校の体育館に運ばれ、10、11日は介抱した。やけどした人やガラス片が刺さった人が埋め尽くし、医者が治療。私たちは水を飲ませてあげた。暑さと、けが人や死者らのにおいが館内にこもっていた。

10日は全身が腫れて「痛か、痛か」とうめく中年女性を励ましたが、11日に息絶えていた。特に外傷はなかったため、後に「原爆の影響で腫れて亡くなったのかしら」と気掛かりだったことを覚えている。

13日、母が伯母の知人の車で佐世保へ訪ねてきてくれた。きょうだいも無事と聞き、安心した。母ら家族は被爆当時、チフスで長崎市内の病院に隔離入院していたという。爆風でガラスが割れ、妹が室内で飛ばされながらも、どうにか助かった。病院から自宅を見に行く途中、浦上川に水を求めて人が群がっていたり、そのまま流されてしまったりする様子が稲佐橋から見えたという。

佐世保で母は毛布など物資をもらい、長崎に帰った。私は16日、きょうだいに会うため長崎の緑町付近へ。広がる焼け野原を見てがくぜんとした。家族はバラックで暮らしていた。式見出身の母の親族は無事だったが、父方の親族は浦上にいたためほぼ全員亡くなった。

浦上天主堂近くへ妹と墓参りに行く際は、親族宅の跡地を通るたびに「ここのおばちゃんにかわいがってもらったね」と思い出を話す。昨年末に膝を痛め、今年はまだ行っていない。

<私の願い>

戦争をしても、悲しくみじめな思いをするだけ。あんなことは、もういや。新しい時代を担う子どもたちのためにも、二度としてはいけない。世界中で行われている核実験も信じられない。 争い事や対立があっても、武力ではなく、対話で解決すべき。誰もが平和を望んでいるはずだ。

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