前川多美江
前川多美江(79)
前川多美江さん(79)
爆心地から3・4キロの長崎市飽の浦町3丁目で被爆
=長崎市岩屋町=

私の被爆ノート

ねっとり射抜く閃光

2012年10月25日 掲載
前川多美江
前川多美江(79) 前川多美江さん(79)
爆心地から3・4キロの長崎市飽の浦町3丁目で被爆
=長崎市岩屋町=

「急降下してきし一機がわれを撃つ眼(め)の其処(そこ)にありまだ捉(とら)われて」
当時、県立長崎高等女学校1年で12歳。飽の浦町から通学していた。一緒に暮らす父は三菱長崎造船所に勤めていた。
8月1日、乾パンの配給を受け取りに行くため隣家の人を自宅の外で待っていた。気配を感じ振り向くと、グラマンがエンジンを止め急降下してきた。機上の操縦士と目があった。とっさに石垣を飛び降り、夏ミカンの木にしがみついた。機銃掃射が襲いかかる。耳のそば10センチの幹に着弾。反復攻撃のすきに1段下の石垣を飛び降り、防空壕(ごう)に逃げ込んだ。それが同造船所などへの集中爆撃の始まりだった。
9日、私を疎開先の蚊焼町に連れ帰ろうと母が弟、妹と自宅に来ていた。出発のため荷物を整理していると突然、卵黄を溶いたようなねっとりとした閃光(せんこう)に射抜かれ、その場に伏せた。「ブォーン」というごう音、地鳴り、風圧、空振、何もかもが一度に襲ってきた。気が付くと玄関に飛ばされていた。
みんな何が起きたのか分からず何も手に付かない状態。夜にまた空襲があるといううわさが流れ防空壕に行ったが、人であふれていたので戻った。父も含め家族全員無事だったのが幸いだった。
15日、町内会から敗戦を伝えられたが、デマだという人もいた。無条件降伏という一大事。17日、家族で蚊焼町へ。郊外へ逃げる人の無言の列が延々と続いていた。
父が出勤前によく言っていたことを思い出す。「今夜会えるとは限らない。一人になっても気持ちをしっかりもって生きなさい」。その父は被爆から6年後に亡くなった。
20年ほど前に長崎の原爆歌人、故竹山広さんと出会い、平和への願いを込め短歌を詠んでいる。
「生家跡爆心地にむく石垣が石の鱗(うろこ)を落(おと)しはじめぬ」
<私の願い>

平和を唱えるのは易しい。それがどういう犠牲の上に立っているのか若者には考えてほしい。平和をいかに守るかは自国だけの問題にとどまらず永遠の課題だ。人類滅亡の兵器である核兵器の削減をまず核保有国からその一歩を踏み出してほしい。それが被爆死したみ霊への何よりの鎮魂になる。

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