原口 貞夫
原口 貞夫(81)
原口貞夫さん(81)
爆心地から3・0キロの長崎市水の浦町で被爆
=長崎市伊良林3丁目=

私の被爆ノート

強い光 目に刺さる

2012年9月13日 掲載
原口 貞夫
原口 貞夫(81) 原口貞夫さん(81)
爆心地から3・0キロの長崎市水の浦町で被爆
=長崎市伊良林3丁目=

当時14歳で、旧制県立瓊浦中2年。学徒動員のため長崎市水の浦町の自宅から茂里町の三菱長崎製鋼所へ通っていた。

8月9日は朝から警戒警報が発令されたため家で待機。空襲警報に切り替わって近くの簡易な防空壕(ごう)へ避難した。午前10時半ごろ解除になって家に戻り、屋外で涼んでいた。飛行音に気付いて空を見上げた。機影を日本の爆撃機だと思い「頑張れ」と手を振った。落ちてきた落下傘三つの行方を見ていると、経験のない強い光が目に刺さり、周囲が薄いオレンジ色に包まれた。気が付くと家の中に飛び込んでいた。爆風で建物が揺れ、ガラスが割れた。

約50メートル離れた大きな防空壕に向かった。浦上方面は山の陰で見えなかったが空は真っ赤。次第に県庁方面に火事が広がるのが見えた。壕に翌朝までいたが、けが人は運び込まれなかった。家族は全員無事だった。

翌朝、同級生と製鋼所へ。進むにつれて、周囲の建物は半壊から全壊へ被害が大きくなっていく。淵神社付近で、40歳くらいの男性が水を求めていた。彼が防火水槽を指さしたので中を見るとへどろの状態。それでもいいというそぶりを見せたので、転がっていた空き缶ですくって渡した。

製鋼所は、鉄骨があめのように曲がりくねっていた。そこに憲兵が来て「浦上駅周辺にまかれている米軍の宣伝ビラを回収せよ」と命じた。拾ったビラを見ると「原子爆弾」という言葉があり、B29の2千機分の爆弾に匹敵するとあった。たった1発が、この焼け野原を生み出したと分かり言葉を失った。ビラは拾ったり人が持っているのをもらって100枚くらい集め、憲兵に渡した。

路面電車の線路沿いを北へ歩いてみた。人や馬が黒焦げになっていたり電車の残骸があちこちに転がっていた。城山国民学校や壊れた浦上天主堂が見えた。爆心地付近で引き返し帰宅した。

<私の願い>

教育ほど恐ろしいものはない。戦争中は「日本は神の国だから絶対負けない」などと言っていたがうそだった。最近も「原発は安全」という神話が崩壊したばかりで、当時の軍隊と通じるところがあるように思う。真実を知ることがいかに大切か。何が正しいか見極める目を養わなければならない。

ページ上部へ