有馬 豊吉
有馬 豊吉(84)
有馬豊吉さん(84)
爆心地から1・2キロの茂里町で被爆
=島原市親和町=

私の被爆ノート

この世の地獄 見た思い

2012年9月6日 掲載
有馬 豊吉
有馬 豊吉(84) 有馬豊吉さん(84)
爆心地から1・2キロの茂里町で被爆
=島原市親和町=

17歳だった。あの日の無残な長崎、そして重傷を負った自分を決して忘れることができない。

軍国少年だった。陸軍士官学校を目指すもかなわず、1945年8月1日、島原の旧制中学から今の長崎大経済学部に入学。翌日から早速、三菱兵器製作所茂里町工場に動員され、魚雷の部品の仕上げ作業に従事した。

あの日、工場の2階でアンダーシャツ1枚になり、工員の人の説明を聞いていた。その時だった。突然、大きな火の玉が左後方の天井から落ちてきた。その瞬間、気を失った。

どれぐらい時間がたったのだろう。意識を取り戻したのは夜明け前の薄くもやがかかったような暗さの中だった。辺りはがれきの山。人の気配はない。焦げたにおいが鼻を刺激した。全身に激痛が走り、熱線で体は真っ赤に腫れ上がっていた。何とか外に脱出し、避難場所を探した。

途中、山の斜面で赤ちゃんが一人、泣くことも忘れて目ばかりくりくり動かしながら横たわっていた。母親はどこに行ったのだろう。どうすることもできなかった。さらに進むと、集落があり、家々が燃え始めていた。中から「助けて、助けて」と泣き叫ぶ声が聞こえてきた。この世の地獄を見た思いだった。

足を引きずり、半日かかって自分の学校にたどり着いた。口はやけどでふさがれ、食事を取れない。事務員さんが、大きく膨れ上がった左手の指を1本1本はさみで切り離し、包帯で巻いてくれた。11日か12日、大八車に積み込まれ、列車で島原に帰郷。入院先は被爆患者であふれ、病院の2階から川に身を投げて自殺する人が相次いだ。

戦後は差別と偏見を恐れ、被爆者であることを隠してきた。だが自分にできる最後のことと思い今年8月9日、島原の中学校の平和集会で初めて体験談を話した。同じ思いを子どもたちに味わわせたくない。

<私の願い>

特に左ほほから肩にかけてのやけどがひどく、なるべく人の目に触れないように暮らしてきた。皮膚移植手術もした。自分が哀れで仕方なかった。大戦では多くの人が亡くなった。尊い犠牲の上に今がある。若い人たちはそのことを忘れず、平和で幸せな社会をつくっていってほしい。

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