杉本 コト
杉本 コト(97)
杉本コトさん(97)
爆心地から1.8キロの長崎市東北郷(現・若葉町)で被爆
=長崎市家野町=

私の被爆ノート

ささやかな幸せ 消えた…

2012年8月9日 掲載
杉本 コト
杉本 コト(97) 杉本コトさん(97)
爆心地から1.8キロの長崎市東北郷(現・若葉町)で被爆
=長崎市家野町=

長崎市家野町の古びた民家。爆心地から1・5キロ。黒ずんだ梁(はり)と柱は戦前からのものだ。1945年8月9日、強烈な熱線と爆風に襲われたこの“被爆家屋”に、杉本コトさん(97)は暮らしている。

本紙連載中の「忘られぬあの日 私の被爆ノート」。被爆者は高齢化が進んでおり、体験を直接聞き書きできる期限は迫りつつある。「あの日」から67年がたつ。焦りにも似た思いで家族や知人以外に初めて口を開いた杉本さんの被爆体験を紹介する。

当時30歳。38歳の夫と7歳の長男、1歳の三男、父の5人暮らしだった。42年、家の前に三菱の兵器工場ができた。夫は浜口町の町工場で兵器工場に納める部品を造っていた。子どもの面倒見が良く、戦時下でも幸せな日々だった。

「倶楽部に行ってくるね」。空襲警報が解除され、長男は近所の子と「倶楽部」と呼ばれる集会所に遊びに出掛けた。夫は町工場、父は畑仕事。私は三男を伯母に預け、東北郷(現若葉町、爆心地から1・8キロ)の青果店に買い出しに出かけた。時計の針は午前11時を回ろうとしていた。

青果店の店先で、爆音に振り返った。「パーン」という衝撃。瞬間、顔などに大やけどを負った。周囲の建物や青果店は倒壊。店の女性が「子どものこの下におるけん。助けて」と泣き叫んでいる。兵器工場の人たちがゾロゾロと歩いていくが誰も救おうとはしない。私も助けるどころではなかった。近くの防空壕(ごう)に逃げ、倒れた。

父はやけどを負ったが無事。長男は壕に仲間4人と近所の人に連れられてきた。「ビー玉ばしよったとさ」。けがはないようだったが息も絶え絶え。大やけどで動けない私の隣に横になった。「母ちゃん腹いっぱい水ば(飲みたい)」。一晩横になっていたが、長男は衰弱し体が冷たくなっていった。そばにいてあげることしかできなかった。

「坊や」「坊や」-。呼び掛けても返事はなく、長男そして一緒にいた子4人は息を引き取った。夫は行方知れずのままだった。

川棚海軍共済病院に運ばれ1カ月がたつころ、夫と知り合いという兵器工場勤務の男性が声を掛けてきた。「ご主人はうちに材料を納める予定だったんじゃないか」。納品に向かう途中で原爆に遭ったのかも。「会いたい。夫を見つけたい」。患者仲間に助けられ、病院を抜けだした。

三男は、いとこが諫早の病院で見つけた。家を修理し父、三男と暮らし始めた。夫を捜しに行きたかったが体の自由が利かなかった。町の世話役さんが、夫の町工場跡から遺骨代わりに土を拾って供養してくれた。

その後、顔の傷から細菌が入って歯茎が腐り手術。米国製の新薬で一命を取り留めた。親類の男性と51年に再婚。2人の娘が生まれた。平和祈念式典には大腸がんの手術を受けた10年前から足を運べなくなった。

この家には原爆投下前の幸せな思い出と、その幸せを一瞬にして奪われた悲しみが詰まっている。

「どうしてこんげんことになったのか」。あの時、夫を捜しに行きたかったと今でもふと思う。

<私の願い>

目の前でわが子が亡くなり、夫の行方も分からないまま。言い尽くせない悲しみがある。戦後の生活も大変だった。戦争は絶対に起こしてはならない。子や孫たちにこんな思いをさせたくない。

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