釘本 イト
釘本 イト(85)
釘本イトさん(85)
爆心地から1・2キロの長崎市茂里町で被爆
=五島市上大津町=

私の被爆ノート

右目の上辺り「熱い」

2012年7月26日 掲載
釘本 イト
釘本 イト(85) 釘本イトさん(85)
爆心地から1・2キロの長崎市茂里町で被爆
=五島市上大津町=

古里の五島を離れ、長崎市の東小島に下宿しながら近くの玉木高等実践女学校に進んだ。3年になり学徒動員で、潜水艦用の魚雷などを造る茂里町の三菱長崎兵器製作所で働いていた。当時18歳。

普段通り、工場で勤務していた。責任者から別の部署に材料を取りに行くよう命じられ、窓側の通路を歩いていた時だった。右側の窓の向こうが突然ピカッと光ったのが分かった。右目の上辺りが「熱い」と感じた。同時に一瞬、記憶が途切れた。気が付くと、鉄筋コンクリートの柱がめちゃめちゃに壊れ、残骸が山のように積み重なっていた。

何種類もの乾パンを入れて腰に下げていたかばんやかぶっていた防空ずきんは、吹き飛ばされてなくなっていた。工場内だったので大けがはしなかったが、外にいたら助かっていなかっただろう。一緒に働いていた友人と2人、残骸を上ったり下りたりして何とか外に逃げた。

いろんな建物が壊れ、電車も止まっていた。友人は香焼の方向へ、自分は東小島へそれぞれ向かった。しばらく歩くと、中年男性に出会った。男性は「子どもを捜しに来たが見つからない」と話し、防空ずきんを脱いで近くの防火用水でささっと洗って、かぶせてくれた。途中まで連れて行ってもらい、下宿まで何とかたどり着いた。

2、3日後だったと思う。知り合いが「五島に行く船がある」と教えてくれた。食糧を運ぶ軍の船だったらしい。大波止から何とか船に乗ることができた。何時間も揺られ、福江港に着いたのは深夜だった。

材木店を営んでいた実家に着くと家族は皆、驚いた。両親は「死んでいるだろう」と思っていたらしい。実家に駐在していた日本兵は、長崎に投下された爆弾の話を興味深そうに聞いていた。その時、私は「日本は戦争に負けるだろう」と話したのを覚えている。

<私の願い>

戦争に巻き込まれて何もかも失ってしまった。世界中では、いまだに核兵器の実験をしている国がある。この世から核兵器はなくなりそうにないけれど、被爆者健康手帳を持っている一人として一日も早く核兵器がなくなってくれるよう心から願っている。それ以外に願うことは何もない。

ページ上部へ