中村 良治
中村 良治(79)
中村良治さん(79)
爆心地から1・2キロの長崎市浦上町で被爆
=長崎市立岩町=

私の被爆ノート

あきらめた兄戻り涙

2017年1月12日 掲載
中村 良治
中村 良治(79) 中村良治さん(79)
爆心地から1・2キロの長崎市浦上町で被爆
=長崎市立岩町=

セミ捕りから帰ってきて、浦上町の自宅前で防火水槽のふちに座っていると、爆撃機の音が聞こえた。見上げると同時に強烈な閃光(せんこう)が走った。駆け込んだ自宅は、爆風で倒壊した。

母が助け出してくれた。自宅に爆弾が落ちたのだと思ったが、周りの家屋も全て倒壊していた。左腕が倍以上に膨れ、右足のすねがひどくえぐれていることに気付き、卒倒した。

7人きょうだいの上から2番目、12歳だった。父は中国に出兵、兄は浦上の変電所に勤務。2人の弟妹は現在の諫早市高来町に疎開していた。

倒壊した自宅では幼かった一番下の妹がどうしても見つからず、仕方なく母、妹2人と計4人で救護所を目指した。途中、がれきの下から首や腕だけを出して「助けて」と訴える人たちを見たが、どうすることもできなかった。

昼すぎに銭座国民学校に到着。医者はおらず、同校前の防空壕(ごう)で4人とも黙りこくって過ごした。夜、看護師がいる井樋(いび)の口交番で腕や足の治療をしてもらい、壕に戻った。10日、トラックで勝山国民学校に運ばれた。教室内には、男女の判別もできないほど真っ黒に焦げた人たちが横たえられており、兄を捜したが見つからなかった。浦上町の自宅付近で、もう一度妹を捜すと、がれきの下で発見。小さな亡きがらを連れて帰った。

14日、弟妹が疎開している親類宅に身を寄せようと、4人で長崎駅から汽車に乗った。大橋の鉄橋付近に差しかかると車窓から、川を黒焦げの人々が折り重なって流れていくのが見えた。

15日に終戦を迎えて以降、一番下の妹と、皆が生存を絶望視していた兄の告別式をした。だが後日、兄は突然生きて戻ってきた。勤務先で負傷し、自分では動けずにいたという。みんなで泣いて喜び合った。父も4~5年後に復員した。

たった1発の爆弾で街は壊滅した。そのことが長い間、不思議でならなかった。

<私の願い>

原爆のことは思い出したくもないし、言葉では言い表せない体験だが、天命を前に被爆の実相を伝えたい。現在、高校生が、署名活動などを通じて国内外で被爆者の声を代弁してくれている。本当にありがたい。彼らに被爆者の思いを引き継いでもらい、核のない平和な世界を実現させてほしい。

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