武末 昭夫
武末 昭夫(86)
武末昭夫さん(86)
爆心地から1・2キロの長崎市茂里町で被爆
=対馬市上対馬町豊=

私の被爆ノート

人の優しさ身に染みた

2017年1月5日 掲載
武末 昭夫
武末 昭夫(86) 武末昭夫さん(86)
爆心地から1・2キロの長崎市茂里町で被爆
=対馬市上対馬町豊=

目が覚めたとき、がれきの中にいた。体を動かそうとしても腰に激痛が走り、抜け出せない。左腕にやけども負っていた。このまま死ぬのかと思い始めたころ、遠くから私を呼ぶ声が聞こえた。「たけすえー! たけすえー!」

対馬で生まれ育ち、17歳で長崎に召集され、茂里町の三菱長崎製鋼所で働くようになった。当時20歳。あの日は溶接作業をしていたが、原爆がさく裂した瞬間の記憶は抜け落ちている。ただ、爆風で工場の端から端へ何十メートルも吹き飛ばされたことだけは覚えている。

呼ぶ声は、技術指導の先生と先輩だった。がれきを取り払い、引っ張り出してくれた。近くに倒れかけた鉄骨があり、間一髪の状況。工場の屋根は吹き飛び、煙突だけが不気味にそびえていた。

工場敷地の外へ出ると、全身にやけどを負い、男か女か判別できない人たちが血や泥にまみれながら浦上川の方へ這(は)っていた。私は2人の肩を借り、近くの防空壕(ごう)を目指した。

防空壕は負傷者でごった返していた。仕方なく先生の実家がある西山地区へ移動し、そこで一夜を過ごした。翌日、車で大村の病院へ連れて行ってもらい治療を受けた。ずっと素足だったので、看護婦からもらったスリッパがありがたかった。

数日後、対馬へ帰ると決めた。お金はなかったが、何も考えず長崎駅から福岡行きの汽車に飛び乗った。博多駅からは歩いて港へ向かった。船乗り場の事務所で事情を説明すると対馬へ渡る船に無料で乗せてもらえることになり、船内で食事もごちそうになった。人の優しさが身に染みた。船の上から古里の懐かしい山並みが見えた時、涙がぽろぽろとこぼれた。

終戦後、島内に点在する砲台の解体を手伝ってほしいと本土の製鉄所から頼まれた。難しい作業と聞いていたが、三菱の製鋼所で働いた私にとっては簡単だった。武器を造る出すために学んだ技術が、壊す仕事に役立つようになり、複雑な思いもした。

<私の願い>

あんな思いは二度と経験したくないし、誰にもさせたくない。生き残った被爆者は健康への不安を抱え続けている。核のない平和な世界をつくるためには原発もいらない。放射能で汚された自然は簡単に元に戻らない。未来を担う子どもたちのため、大人たちが考えを改めることが大切ではないか。

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