城臺美彌子
城臺美彌子(62)
爆心地から2.4キロの長崎市立山の自宅で被爆
=長崎市三川町=

私の被爆ノート

防空ごうで苦しむ声

2002年3月22日 掲載
城臺美彌子
城臺美彌子(62) 爆心地から2.4キロの長崎市立山の自宅で被爆
=長崎市三川町=

当時六歳だった私は、長崎市立山(現在の県立長崎図書館の上)に祖母と叔母の三人で暮らしていた。八月九日の朝、数日ぶりに空襲警報が鳴り響いた。当時の私にとって、警報は身震いするほど恐ろしかった。

祖母から金比羅山の近くの親類宅へ使いを頼まれていたが、敵機が来るのではないかと怖くて家から出られなかった。午前十一時すぎ、西の方角に「ピカッ」と大きな光を見た。どのくらいの時間がたったか分からないが、「美彌子!」と半狂乱で叫ぶ祖母の声で気が付いた。私は家の中でめくれた畳の下敷きになっていた。

家財道具が散乱した部屋から救出され、叔母に背負われ近くの防空ごうへ逃げた。後から聞いた話だが、逃げるとき、祖母は水につけた布団で体をすっぽり覆ったという。それほど熱かったのだろう。

駆け込んだ防空ごうは、県の防空本部の近くだったので、さらに山の上の防空ごうに移った。移った後、すぐ眠ってしまった。目を覚ますと、祖母も叔母もいなかった。

夢か現実か、いまだに分からないが、防空ごうの中に、担架代わりの戸板に乗せられたけが人が大勢入ってきた。あまりの怖さに外へ飛び出すと、町がゴーゴーと炎を上げて燃えていた。自分の方へ火が迫り来るようで怖くなり、防空ごうの入り口に座り込んだ。

幼かったので記憶は確かではないが、防空ごうの中に運び込まれた人の苦しむ声と、傷口から漂う何とも言えない悪臭だけは今も忘れられない。

幸いにも、原爆で家族を一人も失わなかった。だが、小学校教諭を退職した年、生後六カ月の孫を突然亡くした。その時、原爆で家族を失った人の気持ちが心底分かった。

孫が教えてくれた命の重みを胸に、幼い日に見た原爆の実相を伝えたい思いに駆り立てられた。「一人から一人へ」話すことが、「一つの国からもう一つの国へ」広がるように語り続けたいと思っている。

<私の願い>
なぜ原爆が長崎に投下されたか、今の子どもたちに理解させるのは難しい。戦争が起こった背景を含め、戦争の愚かさや原爆の悲惨さを今の子どもたちに伝えたい。

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