宮原清子さん(93)
被爆当時12歳 入市被爆

私の被爆ノート

いとこ見つからず

2026年3月5日 掲載
宮原清子さん(93) 被爆当時12歳 入市被爆

 1945年4月、西彼雪浦村(当時)から長崎市上野町の常清高等実践女学校に進学した。馬町の伯母の家に下宿して、2歳上でいとこの古川寿子さんと一緒に通学していた。学校近くに県立盲唖(あ)学校があったが、三菱長崎造船所の軍需工場になっていた。
 諏訪神社下から電車に乗り、松山町で下車。浦上天主堂の下を通って通学していた。毎日のように空襲警報が鳴り響き、勉強をした記憶はない。6月末に農繁期を迎え、雪浦の実家に帰って田植えなどの手伝いをしていた。若い男性は戦地に行き、人手不足で忙しかった。そのまま雪浦で夏休みを迎えた。
 8月9日は雪浦の自宅の裏木戸につかまって何となく空を見上げていると、南東から強い光が飛び込んできて驚いた。夜になると、長崎市方面が真っ赤になっていた。後に、原爆が落とされて全滅だと聞き、いとこたちが心配になった。当時は連絡手段がなく、不安な毎日だった。
 8月17日、寿子さんの父が家族の安否を知らせるため、船で雪浦まで来てくれた。出張中で無事だったという。
 寿子さんの母と祖母は家にいて爆風で飛ばされたが難を逃れ、妹2人は諏訪神社近くの防空壕(ごう)に避難。寿子さんだけが帰ってきていなかった。両親は火の海となった街で、黒焦げになった男女の区別がつかない人を目の当たりにし、足をつかまれ「助けて」と言われながら、何日も必死に捜し歩いたという。
 9月から学校が始まるため、18日にいとこの父と長崎市に向かった。船が到着すると私も一緒に捜索した。
 通っていた学校は土台だけ残して焼失。周りを見ると鉄骨は曲がり、見渡す限り焼け野原とがれきの山。6月末まで通っていた「いつもの道」も分からなくなるくらい様変わりしていた。浦上天主堂の鐘楼は川に落ち、原爆落下中心地付近が赤土になっているのを見て、相当の爆風と熱さだったと恐怖を覚えた。寿子さんは原爆が投下される前に空襲警報が解除され、学徒動員先の軍需工場に行こうか迷った末に、馬町から向かったと聞いた。だから、電車の中で原爆に遭ったのではないかと思う。結局、見つけることができなかった。
 戦後は食糧もなく、苦労した。空腹の日々だった。48年3月に南山手町の仮校舎で卒業した。入学してできた友人や先生は、ほとんど亡くなってしまった。

◎私の願い

 世界から核兵器、戦争をなくしてほしい。戦争は未来ある子どもらも犠牲になってしまう。生き残っても心に傷を負ってしまう。戦争は何も生み出さない。一緒に常清高等実践女学校を卒業した人と会いたい。浦上天主堂や原爆資料館を訪れたいと思っている。

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