長崎市稲佐町3丁目(当時)の自宅そばにあった淵神社の裏手で遊んでいた。はっきりとした記憶はないが、それまでに感じたことのない爆風が吹いたことは覚えている。背中からドンと倒れた場所は塀がある家のそばだった。山陰だったため大きなけがはなく、倒れた際のかすり傷程度。今も小さな傷が後頭部に残っている。
家に戻ると、辺りの建物が姿を消していたので驚いた。爆風の衝撃で倒壊したためだ。跡形は何も残っていなかった。姉(8)と妹(3)、弟(2)は自宅にいて、妹は頭をけがしたようだった。母は旭町へ買い物に出ていて、子どもの無事を案じながら帰宅。父は勤務先の三菱長崎造船所立神工場で被爆した。みな大きなけがはなかった。
近くの製材工場の貯木場に通じる水路周辺は、死体がごろごろとしていた。今考えると、やけどを負った人たちが水を求めて集まっていたのだろうが、当時は目の前に広がる光景が理解できなかった。「何が何だかわからないけど、二度と見たくない」と思った。恐ろしかった。
自宅付近に火の手が迫ることはなかったが、家は倒壊したため住むところがなくなってしまい、大村市鈴田地区の知人宅に疎開した。父は家財道具を倒壊場所でまとめたようだが、盗まれたそうだ。家だけでなく、持ち物の多くを失い、もうどうにもならなかった。
その冬、三菱の社宅があった長与村(当時)に引っ越した。あらゆるものがない時代で、部屋の窓ガラスが割れていても修理がされておらず、毛布を張って寒さをしのいだ。大変な生活のように感じるが、うれしいこともあったようだ。私は便所が家の中にあったことにひどく喜んだらしい。疎開先の家の便所は牛小屋のそばにあり、夜は怖くて行きづらかったためだと思う。
その後、4歳になった弟が急死した。元気そうにしていたが、原爆の影響かもしれない。
20代になり「あの日」前後の記憶は消えないのだと悟った瞬間がある。消防団員になり、警報を耳にした時のことだ。幼いころ母に連れられ、防空頭巾をかぶって近くの防空壕(ごう)に駆け込んだことを一気に思い出した。暗くて怖くて嫌な記憶だ。サイレンの音を聞くたびによみがえり、気分を悪くしている。
◎私の願い
いろんな発明や研究は、自分の国の利益や資源を守るためではなく、平和利用すべきだ。兵器を造るなど国同士の争いに活用するなんてもってのほか。人類が滅びてしまう。そうではなく、もっと隣国と平和に過ごせるように利用してほしいと願っている。
