当時4歳。物心がついた頃で、あの日のことをはっきり覚えていない。母やきょうだいから聞いたことも交えて話す。
長崎市家野町の自宅で両親ときょうだい7人の9人で暮らしていた。8月9日は母と一緒に自宅から約1キロ離れた里芋畑に行く予定だったが、私は「行きたくない」と泣きじゃくり、留守番することになった。母は1人で畑に向かった。9歳の兄の忠が幼い私の世話をすることになった。忠は自宅から数十メートル離れた友人の家の縁側で遊び、私はその向かいにある家の軒下にいた。
原爆がさく裂した時の光や音は記憶にないが、爆風でがれきと共に飛ばされた怖さは覚えている。気が付くと5メートルほど離れた側溝の中にいた。傷を負って泣いているところを、近所の人が見つけてくれて防空壕(ごう)に避難した。自宅前の三菱長崎兵器製作所大橋工場からは、煙がもうもうと上がっていたのも覚えている。
防空壕には11歳の姉も避難していた。畑にいた母も無事だった。里芋の大きな葉の下で、かがんで草むしりをしていたから身を守れたのかもしれない。自宅にいた父も倒壊した家屋の材木により、出血していたようだが無事だった。
ただ、きょうだい4人の命が奪われた。私とたった数メートルしか離れていないのに、忠は重度のやけどを負った。母が生前、泣きながら話してくれたが、忠は手足の皮がはげ「痛い、痛い」と泣き叫んでいたという。傷口にはうじ虫が湧き、母が箸で取り除いた。自宅裏の防空壕で看病していたが、11日に息絶えた。私が母と一緒に畑に行っていれば忠は生きていたかもしれない。つらく、悲しい思い出として脳裏に刻み込まれている。学徒動員により、大橋工場で働いていた15歳の姉と13歳の兄、近所で遊んでいた7歳の兄も亡くなった。
私は大きなやけどを負うなどしていないが、夏になると被爆の影響か、よく頭が化膿(かのう)し、かさぶたができた。小学生の時には友達から「できぶつ」とからかわれ、嫌な思いをした。60歳を過ぎてからは前立腺がん、腎臓がん、声門がんを患ったが、手術をして何とか乗り越えた。
今こうして生きていられるのは、きょうだいの犠牲のおかげ。感謝の念を忘れることなく一日一日を大事に、そして平和な世界を願いながら生きていきたい。
◎私の願い
被爆80年を過ぎ、生存する被爆者はほんの一握り。今まで体験を話す気になれなかったが、残さなければと思い、今回取材を受けた。核のボタンが押されれば世界は終わる。被爆者の生の声を若い世代が継承し、核廃絶まで辛抱強く頑張ってほしい。
