川副忠子さん(81)
爆心地から2.5キロの西山町2丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

差別が戦争を生む

2026年1月29日 掲載
川副忠子さん(81) 爆心地から2.5キロの西山町2丁目(当時)で被爆

 1歳半で被爆したため記憶はない。私の「被爆体験」は一緒にいた母と叔母の証言が基になっている。
 1945年8月9日、爆心地から2・5キロ離れた長崎市西山町2丁目の自宅で被爆した。23歳の母は昼食の準備をしており、16歳の叔母は幼い私の面倒を見ていた。自宅は屋根や畳が浮き上がるなどしたが、私を含め3人にけがはなく、翌日に祖父の実家がある三重村(当時)に疎開することになった。
 私の被爆者健康手帳には、直接被爆と入市被爆の二つの欄に記述がある。三重村へと歩いた道中、爆心地周辺を通ったためだ。母や叔母によると、黒焦げの遺体のほか、立ったまま焼け死んだ馬、やけどを負い、裸同然で歩みを進める被爆者たちの姿があったそうだ。疎開先に着くと、被爆の急性症状と脱水症状からか、幼い私は下痢や嘔吐(おうと)を起こしてぐったりしたものの、やがて回復したという。
 祖父は爆心地に近い城山町1丁目(当時)に自宅があり、原爆投下時は別の場所で被爆して難を逃れた。同居していた私の祖母や母のきょうだいら4人は爆死し、骨だけになってしまった。祖父は家族を捜すため、何度も爆心地周辺に入った。戦後は体調を崩しがちになり、58年、肺がんのため63歳で亡くなった。
 私は成長してから大病になることもなく66年に小学校教諭になった。70年には長崎市原爆被爆教師の会に入会。先輩たちの姿に刺激を受け、被爆者やそうでない教員仲間とサークルを結成し、平和教育の教材作りに取り組んだ。
 2004年に市立鳴見台小での勤務を最後に退職した。組合運動の関係で長崎の被爆者4団体の一つ、県平和運動センター被爆連にも入った。これまでに被爆の実相を世界に伝えるため、国際会議に合わせて何度か海外へ渡る機会があった。22年にオーストリア・ウィーンであった核兵器禁止条約の第1回締約国会議にも参加した。
 平和教育に携わり実感したのは、戦争は差別から生まれるということ。戦争を起こす人は他者の人権など考えない。排外主義がはびこる日本の現状は本当に怖い。
 25年11月、被爆連の議長に就いた。川野浩一さん(86)=原水爆禁止日本国民会議(原水禁)共同議長=の後任は重いが、組織の中ではまだ動ける方。次世代へ運動をつないでいかなければと切実に考えている。

◎私の願い

 力で平和はつくれない。気持ちを通わせ、互いがリスペクトし合える人間関係をつくらなければ。核兵器が使われれば地球は汚染され、生き残った人にも後遺症をもたらし続ける。人類と核兵器は共存できない。生き残った被爆者として、そのことを伝えたい。

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