当時は大村市立福重国民学校の6年生。叔母が長崎市宝町に住んでいて、大村まで米や野菜を調達に来ていた。姉妹が順番で荷物持ちとして叔母の家について行くのが楽しみだった。原爆投下の前日は私の番で夕方に長崎入りしていた。
9日朝、叔母は仕事へ。私は知り合いの予科練生から食料の配達を依頼され、地図を頼りに長崎駅の近くまで届けに行ったが留守で、人が来るまで玄関で待っていた。
当時は飛行機の音を聞き分けることができ、米軍のB29爆撃機の音がした。ラジオで諫早から長崎方面に接近中と分かった。「そろそろ飛んでくるかな」。防空頭巾をかぶり、庇(ひさし)から空を見上げた途端、奥の間へ吹き飛ばされた。
どのくらい時間がたったか分からない。「ああ、死んだね~」。もうろうとした意識の中、古い壁の臭いに呼び起こされて気が付くと、辺りは真っ暗闇。かすり傷一つなかったのは幸いだった。出口越しに人々がぞろぞろ同じ方向へ逃げていくのが見え、必死について行った。
溝の中や墓場に隠れながらたどり着いた先は、諏訪神社(上西山町)の防空壕(ごう)。すっかり夜になっていた。「どっから来たと?」心細くて泣いている私に、二の鳥居のそばに住む見知らぬおばさんが声をかけてくれた。汽車で大村に帰る11日まで行動を共にし、食事の世話や道ノ尾駅までの同行者も手配してくれありがたかった。
駅までの道中、長い棒で右に左に遺体をかき分けながら向かってくる人たちがいた。内臓が飛び出たり、水タンクに顔を突っ込んだりした遺体や顔が大きく腫れ上がり、うめく人がごろごろいて「地獄を見た」。吐き気がして、持っていた食べ物を口にする気にもなれなかった。
その日のうちに大村の家に帰り着いたが、叔母は私のことを1週間も10日も捜し歩いたそうだ。実際に再会できた時は強く抱きしめて喜んでくれた。どうやら叔母が大村へたどり着いた時、隣家のおばあさんの葬式を私の葬式だと思い込み、しばらく近づくことができなかったらしい。
その後は肋膜(ろくまく)炎や肺浸潤を患ったり、髪の毛が全て抜け落ちたりして学校に行けない日々が続き、「死にたい」と思ったが、家族に大切にしてもらった。そんな経験があるから、髪が生えそろってからは、なるべく切りたくなかった。
◎私の願い
毎年8月9日のサイレンが鳴ると、胸が締め付けられる思いで手を合わせている。ひ孫たちには戦争に遭ってほしくない。今も争っている、よその国の子どもたちもかわいそうに思う。戦争はもうこりごり。日本は非核三原則をずっと守ってほしい。
