長崎市竹の久保町3丁目(当時)に家族8人で暮らしていた。11人きょうだいの10番目で六女。姉2人は結婚や仕事で満州に渡り、4人いる兄のうち3人は出征し2人は既に亡くなっていた。
1945年8月9日。学校は休みだったので、家で四女と五女の姉2人や妹らと昼食を待っていた。父と次女の姉は外に出ていた。突然「ドン」と聞いたことがないごう音が響き、大きな雷が落ちたかのような光を感じた。「みんな伏せろー」。外から父の大声が聞こえた。子どもながらに「死ぬとかも」と思い、恐怖で震え涙が出た。爆風で家は倒壊。がれきの下敷きになったが、父に助け出された。父にけがはなかったが、次女の姉は全身にひどいやけどを負った。辺りは燃えて何もなく、淵神社もめちゃくちゃだった。
何日たっただろうか。母の知人を頼りに、西彼長浦村(当時)に向かって歩いた。道端には動物の死骸がたくさん転がっていて、亡くなった人を踏んだのかも分からない。自分が無事にたどり着けるかに必死で、その時は「怖い」という感覚はなかった。
到着してからは食料に困りながらも何とか生活した。大やけどを負った姉には、すりつぶしたジャガイモを薬の代わりに塗ってあげていた。終戦を迎えて間もなく、父や姉たちは、長崎の家の片付けや仕事をするため先に帰った。私は国民学校を卒業する年まで知人の元で過ごしたが、疎開先の学校で「長崎から来たから」といじめられたこともあった。長崎に戻り数年たった中学3年の冬、父が急に熱を出して何も食べなくなり、その後亡くなった。しばらくして放射線の影響だったのではと思うようになった。
市内の高校を卒業後、印刷所に就職した。原爆による健康被害と思ったことはないが、貧血の症状はひどかった。20年以上前、長女に甲状腺疾患が見つかった。病院ではストレスが原因と診断されたが、心の中で「(私が)被爆したことも関係していないか」と子どもへの影響を心配した。
10年ほど前にパーキンソン病を患い、長時間立ち続けるのが難しくなった。だが今年4月、平和公園で被爆者らの座り込み運動に初めて参加した。懸命に取り組む参加者を見て、これまで関われなかった申し訳なさを感じた一方、平和運動を応援する気持ちが強まった。
◎私の願い
今も世界で戦争が起きていて、どこの国にも泣き苦しむ人がいる。私は戦争で家庭が壊れ、苦労しながら頑張ってきた。平和は家庭という身近な所から始まるから、相手にうそをつかないことが大事だ。平和で幸せな家庭を守るために戦争だけはしてほしくない。
