4人兄弟の末っ子として福江市(現五島市)で生まれた。県庁職員だった父の転勤に伴い島原や佐世保を経て、小学3年時に長崎市に移り住んだ。中学生の頃は戦時中だった。午前中は学校で授業を受け、午後には工場などに駆り出された。手りゅう弾を作ったり、防空壕(ごう)や塹壕(ざんごう)を掘ったりした。大波止では五島行きの船に食料などの物資を積み込んだ。
1945年8月9日は祖母の葬儀があり、両親は朝から旧北高古賀村(現長崎市)に向かった。夏休みで学校もなく、自宅の2階で五つ上の兄とくつろいでいた。
急に窓の外が強烈な光で照らされた。とっさに目と耳を両手でふさぎ、畳に伏せた。ごう音とともにすさまじい風が吹いた。家の裏に爆弾が落ちたと思ったほどの衝撃だった。閉めていた雨戸が家の中に吹き飛んできた。屋根の一部がはがれ、空が見えた。けがはなかった。
外に出ると土煙が舞っていた。学校の体育用具を収納した倉庫が5、6棟倒れていた。校舎は所々窓が割れていた。近所の人たちは何が起きたのか分からない様子でぽかんとしていた。2日前に父から聞いた「広島に新型爆弾が落ちた」という言葉が頭に浮かんだ。ひょっとしたら長崎にも同じ爆弾が落とされたのかもしれないと思った。
1時間ほどたった頃、シャツがボロボロでぐったりした人が両脇を支えられている姿を見た。私は兄と近くの防空壕へ逃げた。金比羅山を越えた先にある浦上辺りの空に茶色の煙が見えた。
私と兄は夕方に古賀村へ向けて歩き始め、翌日の昼前に着いた。古賀村から浦上方面の爆発を目にした父は、三菱長崎兵器製作所大橋工場で働いていた八つ上の姉を心配し、市中心部に行っていた。姉は幸い無傷で、鹿児島から動員されていた学生数人と救援列車で逃げたらしい。その後、無事に古賀村へたどり着いた。
9月になると通常通りの授業が始まった。戦時中に週2、3回あった軍事訓練はなくなった。髪形が自由になり、映画も見られるようになった。食糧難は食べ盛りだった私を苦しめた。親戚からもらった芋やカボチャで空腹をしのいだ。
20歳で満州に出兵した10歳上の長男は戦後、シベリアに抑留されていた。終戦から3年後、家に兄の死を知らせる紙が届いた。
◎私の願い
戦時中の言論統制で国民がだまされた結果、先の大戦に突き進んだ。戦後、真相を知ったときは衝撃を受けた。核兵器は1日でも早く地球上からなくすべきだ。日本は敵対する国を威嚇する核保有国に対抗するため、他の民主主義国家と協力していくべきだ。
