被爆当時は長崎市高平町で、愛宕山のふもとにある道沿いの家に住んでいた。6人きょうだいの次女で、活水女学校(当時)の2年生だった。
1945年8月9日。学校は休みで、朝からおつかいに出た。買い物を終えて、自宅の外で近所の女性2人と世間話をしていると突然、ピカッと光った。音は聞こえなかった。
慌てて家に戻るとガラス窓が全て割れ、障子が吹き飛んでいた。ガラスの大きな破片や、砂のように細かい破片が広がり、家中がガラスの海だった。
仕事に行っていた父も、学徒報国隊や防空壕(ごう)に行っていたきょうだいも、どこにいたのかは覚えていないが、母も、みんな無事だった。
鮮明に記憶に残っているのは13日の出来事。西郷(現西町)に暮らしていた叔父が、涙をポロポロこぼしながら家にやってきた。被爆した妻が10日に息を引き取ったという。結婚して2年もたっていなかっただろう。名前は「スエコ」だったと思う。その日、叔父の家で整理を手伝うため、叔父、姉と一緒に西郷まで歩いた。
初めて被害が大きかった地域に足を踏み入れた。ごろごろと転がる黒焦げの死体をかき分けるように歩き、叔父の家を目指した。身寄りが分からないのか、遺体が放置され、牛や馬の死体もあった。タオルで口と鼻を覆いながら歩いていたが、言葉にならないような臭いが立ち込めていた。浦上川には、喉が渇いて水を求めたであろう人たちの死体の山が築かれていた。
終戦後の食料が乏しかった時、浦上川の下流辺りで貝を掘り、食いつないだこともあった。その時も浦上川の死体が脳裏に浮かんだ。今でも食事に貝料理が出ると、箸が止まってしまう。
16、17歳くらいまで、白血球が正常な数値の半分ほどしかなかった。爆心地近くを歩いたからではないか。知人に勧められて被爆者健康手帳を取得したのは79年4月。結婚し、2人の子どもを育てている最中だった。
原爆の前に、スエコ叔母さんとの思い出がある。叔母は清水町にある寺の娘で、優しい人だった。寺に遊びに行った帰り道で「さようなら」と手を振り合った。そのときなぜか、何度も叔母の方を振り返った。何かの予感だったのかもしれない。
◎私の願い
戦争には絶対反対。今、世界には、長崎に原爆が落とされた当時よりもたくさんの核兵器があり、もっともっと威力も増している。もしまた長崎に同じように落とされたら、長崎は1発でなくなる。世界中が仲良くし、戦争をなくしていかなければならない。
