中川秀美さん(87)
爆心地から8キロの西彼長与村岡郷(当時)で被爆

私の被爆ノート

学校の異様な光景

2025年10月23日 掲載
中川秀美さん(87) 爆心地から8キロの西彼長与村岡郷(当時)で被爆

 西彼長与村岡郷(現長与町岡郷)で暮らしていた。6人兄弟の四男で、父は自宅で理髪店を営んでいた。
 8月9日は夏休み。かんかん照りだった。朝から店は開いていたが、暑かったからなのか、客は来ず、座敷で父とお茶を飲んで客を待っていた。
 午前11時2分。家の中からでもはっきりとした光を感じ、間もなく「ドーン」という鈍い音が聞こえた。衝撃で家が揺れ、天井からはすすが落ち、理髪店の窓ガラスは全て割れた。外に出ると、空にはもくもくと上がった真っ黒な雲が見え、爆弾が落ちたことが分かった。幸い、家族全員けがはなく無事だった。もしあの時に客がいたら、父が仕事をしていたら、全身にガラス片が突き刺さり、死者が出ていたかもしれない。
 店は翌日から再開し、散髪に来た客から周辺の情報が入ってきた。通っていた長与国民学校が臨時の救護所になっていると聞き、状況を見たくなり、1人で学校まで25分くらいかけて歩いて行った。
 学校に着き、廊下を通って窓越しから見えたのは、やけど姿で教室内に収容され、床に寝かされた人々と近くで手当てをする女性らだった。時折、箸を使ってけが人の体から何かをつまんでいた。食べ物に使う箸をなぜ使っているか不思議だったが、後になって傷口からわいたうじ虫を取り除く作業だったことを知った。学校の敷地内では遺体を埋めるため男性が地面を掘り起こしていた。家に帰る途中、長崎市内で被害に遭った人を何人も乗せたトラックが1台、目の前を横切った。日常では見たことがない光景を次々と目の当たりにし、衝撃を受けた。
 戦後も食料不足は深刻。わが家は弟がさらに1人増え、食べ盛りの子どもが多く、食べ物の確保が特に大変だった。その中でも元気に過ごすことができたのは、母が近くの農家を毎日のように訪ね、着物などと引き換えに芋や米、野菜をもらいに出歩いてくれたおかげだ。配給品には家畜用の飼料として使われる雑穀もあった。決しておいしいものではなかったが、食べたくないとは言えなかった。当時は生きるために必死で、食べられるものは口にしていた。

◎私の願い

 戦争はどんな理由であってもするべきではない。人を苦しめたり殺したりする戦争をどうしてしないといけないのか疑問だ。今も世界のどこかで戦争が起きているが、戦争以外にも争いを解決できる道はあると思う。危険を感じておびえて生きるのは一番良くない。

ページ上部へ