井手尾弘さん(86)
爆心地から6キロの西彼矢上村現川名(当時)で被爆

私の被爆ノート

布団ごと壁まで飛ぶ

2025年10月16日 掲載
井手尾弘さん(86) 爆心地から6キロの西彼矢上村現川名(当時)で被爆

 西彼矢上村現川名(現長崎市現川町)で暮らしていた。祖母と両親、5人きょうだい。あの日、母と祖母は自宅そばで畑仕事をしていた。近くで遊んでいると、異変を感じた母が突然、「危なかよ、こっち来んね」と私の手を引いた。段々畑の石垣まで連れて行かれ、祖母と3人でうつぶせになった。母が私に覆いかぶさり、何が起きたか分からなかった。母からは、着物が爆風で「はぎ取られるような思いをした」と何度も聞いた。近くで被害があったと思ったのだろう。祖母は近所に「爆弾の落っちゃけたごた」と言っていた。
 家には7月に生まれたばかりの弟が寝ており、2番目の姉が子守をしていた。姉によると、吹き込んだ風で弟が布団ごと壁まで飛んだという。部屋の柱は5センチほどずれ、長い間そのままだった。
 夕方、爆心地の方から顔が黒くすすけ、服がぼろぼろの人が枝を振って歩いてきた。性別もわからない。山の向こうで何があったのか知らず、気になって友達と後をついて行くと、ただれた肌に寄ってくる虫を枝で払っていた。家の庭には、紙の燃えかすや焦げた葉がうっすらと降り積もったと姉が言っていた。
 長崎市飽の浦町の三菱長崎造船所に勤めていた父は、戦争や原爆のことをずっと話さなかった。兵役に行った弟が亡くなり、後ろめたさもあったのかもしれない。戦後間もなく父が米兵を家に連れてきた。英語は分からなかったが、父が「何歳か聞きよるよ」と私との間に入って話した。英語に興味を持つようになり、民間で働いた後、中学校の英語教諭になった。
 平和や核兵器廃絶について考えるようになったのは退職後。被爆証言などの記録を続ける市民団体「長崎の証言の会」に誘われ2007年、核兵器廃絶運動に参加するため英スコットランドへ渡った。その後「何か行動に移さないと」という思いもあり、会に加わって原爆関係の碑巡りの案内などをするように。昨年10月から長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の依頼を受け、被爆講話をしている。
 爆風のせいか、2番目の姉と三つ下の弟は幼い頃から耳の聞こえが悪かった。一番上の姉は被爆後数年で甲状腺を患い、2番目の姉と弟2人はがんを発症した。放射能の影響ではないかと思っている。いつ自分にも影響が出るか分からない不安がずっとある。

◎私の願い

 民間では海外旅行やスポーツ、文化を通じて国同士が交流を深める中、政治の世界だけ国と国が対立しているように感じる。未来を担う若い人には歴史や世界情勢に関心を持ってもらい、知識でとどめるのではなく、小さなことでも行動に移してほしい。

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