宮原浩子さん(93)
被爆当時13歳、爆心地から1キロの坂本町

私の被爆ノート

姉と別れ 今も後悔

2025年10月2日 掲載
宮原浩子さん(93) 被爆当時13歳、爆心地から1キロの坂本町

 生まれは福岡県小倉市(現北九州市)だが、兄が長崎医科大薬学専門部(当時)に在学し、私も活水女学校(当時)に進学したため、1945年春に家族で長崎市に転居した。父は私が幼いころに結核で死去。母と兄、5歳年上の姉の4人で医科大近くの坂本町に暮らしていた。
 あの日、母は仕事、兄は飽の浦町の三菱重工長崎造船所への学徒動員で留守だった。姉はなぜか会社を休んでいた。私も学校を休み、医科大そばの防空壕(ごう)に行くことにした。
 姉は、水筒にお茶を入れ、弁当を作ってくれた。足踏みミシンで作業しながら「行ってらっしゃい」と手を振ったので、私も「行ってきます」と言って、家を出た。それが最後の別れになった。
 防空壕は山に横穴を開けただけの簡素なもので、湿気が多く、薄暗かった。しばらくして外に出ると、入り口付近に知らない女性が立っていた。空に白い機影が見えたので、慌てて中に戻り、石の上に腰かけた瞬間、ものすごい爆風と閃光(せんこう)が入り口を通り抜けた。入り口は半分以上崩れ、生き埋めになりそうだった。男性が入ってきて「今出ると危ない」と叫んだ。
 しばらくして外に出ると、入り口にいた女性は大やけどを負い、皮膚がドロドロにただれていた。医科大は窓から火を吹き、燃えていた。道や側溝に皮膚がはがれた人々があふれ、「水、水」とか細い声でうめいていた。
 勤務先から戻った母と合流し、自宅付近で姉を捜したが見つからない。隣人の女性から「お宅のお姉さんの手を引いて逃げていたが、『私はもう駄目だから、先に行ってください』と言われ、手を離してしまった」と聞いた。その人も大やけどを負っていた。
 翌朝、再び自宅周辺を捜したが、見つかったのは、姉が身に着けていた洋服と巾着袋の切れ端だけ。遺体は見つからなかった。あの日、一緒に壕に行けばよかったと悔やんでいる。兄はガラスの破片が体に刺さるけがをしたが、数日後、戻った。
 9月に入ると私は高熱に苦しんだ。福岡の病院で診察を受けると、白血球が減少し、肝臓を患っていた。病院に向かう列車で母が「(姉の)尚子を亡くしたのに、その上浩子までは死なせない。絶対に死なせない」としぼり出すようにつぶやいたのが印象に残っている。学校を半年間休み、復学したのは翌年の4月だった。

◎私の願い

 核兵器は、何の罪もない人々を一瞬にして殺し、悲惨な目に遭わせた。この怒りをどこに持っていけばいいのか。今を生きる若い世代は、重責を担っている。私たち世代がたどった暗い道筋ではなく、明るい光が差す道筋を創造してほしい。

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