1945年、長崎市立神町の自宅で両親と6人の兄弟で暮らしていた。太平洋戦争は激化して本土への空襲が連日続き、米軍のB29爆撃機による攻撃は全国各地に拡大。物資統制の下、苦しい生活だった。食糧不足で杉山の荒れ地を借りて開墾。サツマイモと数種類の野菜を栽培し、両親は6人の息子を育てていた。
父は三菱長崎兵器製作所茂里町工場に勤めており、6月に一家で岩屋郷(現・岩屋町)の社宅へ疎開した。
8月9日は快晴で朝から蒸し暑かった。原爆投下時は弟2人と近くの川で泳いでいて、幸運にも多くの樹木と側壁が熱と爆風を防いでくれた。光や風は感じなかったが、かなりの衝撃と異変を察知し、急いで自宅へ戻った。家の窓ガラスは割れ、たんすや茶棚は倒れ、陶器類も散乱。母と共に防空壕(ごう)へ避難した。
数時間後、国道沿いに出ると市中心部の方からけが人や、やけどを負った人たちが夢遊病者のように重い足取りで時津方面へ避難していた。「長崎は全滅」「火の海」と話していた。その夜、父や兄とは連絡が取れなかった。不安を抱きながら電灯のない暗い部屋で母と弟たちと過ごした。
兄は市立商業学校(現・市立長崎商業高)3年生で、学徒報国隊として茂里町工場に派遣され被爆。近くの聖徳寺の防空壕に避難していた。疲労と空腹で自宅へ帰ろうと思ったが、浦上方面は火勢が強く、通れる状況ではなかったという。背中に大きな傷を負い、やけどした足を引きずりながら稲佐橋や飽の浦町を経由し、翌日未明に立神町の自宅にたどり着いた。
父は技術者で普段は茂里町工場で魚雷を作っていたが、この日は日見トンネル内で作業中に被爆した。救護活動をしていた父と再会できたのは2、3日後だった。
数日が経過し、私は食料調達のため松山町方面へ鉄道線路沿いに歩いた。周囲の建物は全て焼失し、鉄骨は折れ曲がって異様な惨状だった。道中は人の遺体や動物の死骸による悪臭が鼻についた。稲佐橋近くの缶詰工場に立ち寄ると、熱で膨れ上がった缶詰があったため失敬して持ち帰り家族全員で空腹をしのいだ。
私はその後、小学校教諭として勤務。胃がんや肺炎、脳梗塞など健康被害に苦しみながら過ごしている。父は101歳、兄は92歳で他界した。長生きしたが、原爆の影響でずっと苦しみ続けていた。
◎私の願い
当時の私は、幸か不幸か助かった。あの戦争を振り返って思うことは「戦争で得るものは何もない」ということ。原爆で傷ついた人たちの姿は今も脳裏に焼きついて離れない。核兵器のない平和な世界になることを望んでいる。
