福丸定美さん(88)
被爆当時8歳、入市被爆

私の被爆ノート

続く黒い人々の列

2025年8月28日 掲載
福丸定美さん(88) 被爆当時8歳、入市被爆

 父の仕事の都合で、3歳の時に一家で長崎から満州に渡った。私が7歳の時に父が病死し、妊娠中だった母や4歳下の弟と一緒に長崎へ帰郷した。
 母と弟は西山にある母の実家へ。私は平野町の父の実家に引き取られ、山里国民学校に転入した。その後すぐに母の元に戻り上長崎国民学校に通った。それもつかの間、旧北高古賀村(現長崎市)へ疎開し、古賀国民学校に転校した。小学3年生のうちに3度も転校したので友達ができずに寂しかった。ただ、平野町にいたままだったら私は今、生きていないだろう。
 8月9日は古賀村の家で、雨戸を全開にして弟とくつろいでいた。突然空が光り、ちゃぶ台がひっくり返って土瓶が飛んだ。疎開先のおばさんから教わった「何かあったらすぐに隠れなさい」という言葉を思い出し、積んであった布団の後ろに隠れた。一番下の弟と出かけていた母は「爆弾が長崎に落とされたみたい」と帰ってきた。その後、紙切れのようなものが空から降ってきて不思議だった。
 翌日、長崎市内から諫早方面へ向かう現在の国道34号を見ると、トラックが何台も通り、リヤカーを引いてのろのろ歩く黒い人々の姿が見えた。行列は夜中も続き、外を眺めていたら「早く寝なさい」と母に怒られた。日課だった廊下の掃除をすると、ぞうきんが真っ黒になった。何度拭いてもきれいにならなかった。灰だったのだろうか。
 その後、浦上方面に爆弾が落ちたとうわさを聞き、平野町にある父方の家族の安否確認に行った。弟2人は西山に置き、母と歩き続けた。浦上町(当時)付近で「子どもが見るものではない」と大人たちに止められた。母が一人で安否確認に行ったが、祖母は風呂場で伏せた姿で息絶えていたという。祖父は外出していて、恐らく浦上駅付近で亡くなったと思われる。骨も何も見つからなかった。
 終戦を告げる玉音放送は理髪店で聞いた。「悔しい」と涙を流す店主のバリカンを持つ手に力が入っていた。当時は、なぜ泣いているのか理解できなかった。結婚後、被爆者の妻に勧められ手帳を取得した。入市被爆であり、当時のことを具体的に覚えていないことから、これまで被爆体験を語ってこなかった。でも今は「生きているうちに語り残さないと」という気持ちになっている。

◎私の願い

 今の世界を見ると戦争や紛争の残酷さ、惨めさが分からなくなってきているように感じる。科学を武器の製造に使うのではなく、人間のため、社会のために使うべきだ。核兵器をつくる人間に対して「地球をいじめるな」と訴えたい。

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