長崎市大浦上田町(当時)に家族10人で暮らしていた。6人きょうだいの長女。生まれたばかりの末弟を世話する母に代わり、炊きまかないなどを任されていた。
鶴鳴高等女学校の2年生だったが、学徒報国隊として初めは飽の浦町の三菱長崎造船所で働き、その後、平戸小屋町(現丸尾町)の三菱電機長崎製作所に移った。あの日、仕事に出ていたら助からなかっただろう。
8月6日に新型爆弾が落とされたことを知った父が「仕事は休み、家から疎開小屋に荷物を運ぶように」と言った。8日は言いつけを破って出勤したが、9日は疎開する日で家にいた。
外で空を見上げていた弟が叫んだ。「飛行機から落下傘の落ちよる。竹やりば持ってこんね」。外に出て、ふわふわと落ちてくる丸い落下傘を確認したその時、とてつもない光を全身に浴びた。
「目がやられた!」。20~30本の針で目を突き抜かれたような刺激。家の中に逃げこむと、土ぼこりで辺りは真っ暗。家財道具はどこかに飛んでいき、家の中はすっぽんぽん。父が「近くに爆弾が落ちたらしい」と言い、有事に備えて山手に借りていた4畳半の小屋に避難することにした。
無我夢中で記憶は断片的。母は左右ふぞろいのげたを履いていたし、重たい小だんすを1人で担いで上ったことは印象深く覚えている。家族は大きなけがもなく無事だったが、伯母は仕事先の竹の久保で重度のやけどを負い、小屋は伯母を介抱する場所になった。墨を塗ったように真っ黒な姿が恐ろしくて、アロエをすりおろして顔に載せたり、汁を飲ませたりするのを見ていた。アロエも手に入らなくなり、父の故郷の天草まで買い出しの手伝いで通った。
午前5時から道なき道を歩き、茂木の港から船で天草へ。帰りは大きなリュックサックの他、左右の手にも大荷物。首には油瓶を下げ、地獄のような上り坂を歩いた。10人が食べていくのは大変で命がけ。伯母は看病のかいあって回復した。
その後、目は時折痛み、見にくさや目が開けづらい症状に長く悩まされた。県外の病院でも診てもらったが、原因や効果的な治療は見つからず。60代で白内障の手術後はよく見えるようになった。
青春は戦争真っただ中で覚えていないことも多い。今が自由で一番幸せに感じる。
◎私の願い
今もあちこちで起きている戦争の映像を見ると、昔とちっとも変わらない。思い出したくなかったけれど、被爆80年を機に取材を受けた東京の妹に促され、体験を話す気になった。やはり若い人に戦争だけはさせたくない。みんなが幸せになってほしいと思う。
