4年前の夏、アテネ。初めて挑んだ五輪は、男子ダブルス、混合ダブルスとも初戦で敗れた。だが、今回は出るだけで終わらせる気はない。「世話になった方々のためにも結果がほしい」。大束忠司は“恩返し”を胸に、自身2度目の五輪の舞台に立つ。 国体選手だった両親の影響を受け、3歳のころからラケットを握った。母、佐代子が「生後8カ月で歩いた。ひょっとしたらこの子は…」と振り返るように、幼いころから運動能力は抜群。父、歳文が指導する高丘クラブで力をつけ、中学3年で全国中学大会シングルス王者に輝いた。 高校3年でもインターハイの団体、個人ダブルスで2冠を獲得。将来を嘱望される選手として日体大に進んだ。それでも、このころは「五輪なんて別の次元の存在。自分が出るなんて考えてもいなかった」。 五輪が視野に入ってきたのは大学2年。全日本総合の個人ダブルスを制してから。その後も結果を残し続け、シドニー五輪が手に届くところまできた。だが、右肩の故障などが重なり落選。「あれは悔しかった。でも、あの時にシドニーに出ていたら、満足して終わっていたかもしれない」
そのアテネは「負けたけれども力は出せた。充実感はあった」。選手としてはアテネまで、次は指導者、という思いもあった。だが、胸の内で何かがくすぶり続けた。「本当にこれで悔いはないのか…」。考えがまとまらないうちに、北京五輪レースが始まった。 バドミントンは国際大会に出続けて結果を残さなければ、五輪に出場できない。北京の男子ダブルスの枠は全世界で16。アテネ後、舛田・大束ペアは勝てない日々が続いたが、北京五輪レースを前に調子を上げた。結果、世界ランク12位で出場権を獲得。「ホッとした。これで一つ恩返しができたかなと思った」 攻守両面でそつのないオールラウンダーだが「僕は技術よりも内面的なものを大事にしている」。気持ちで負けない、最後まであきらめない。その培ってきたスタイルを「今度こそ集大成」と位置づける北京の大舞台で披露する。 略歴/おおつか・ただし 長崎市出身。国体選手だった両親の影響を受け、仁田小1年から本格的にバドミントンを始めた。大浦中3年で全中シングルス優勝。八代東高−日体大でも日本一に輝き続け、2004年のアテネ五輪に出場した。現在はトナミ運輸に所属。舛田圭太とはペアを組んで12年目。明るく、社交的な人柄で「常にマックス」が信条。169センチ、64キロ。29歳。 2008年7月20日長崎新聞掲載
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