1988年のソウル大会以来、20年ぶりのアジア開催となる北京五輪開幕まで21日。県勢(県内の中学校、高校、大学、実業団に3年以上所属、小学校に6年間所属)は過去最多だったアテネ大会の8人には及ばなかったが、7競技で7人が出場切符を手にした。地元の期待を背負ったトップアスリートが、世界最高の舞台でどんなパフォーマンスを見せるか。夢、あこがれ、あるいはもっと大きな思いを胸に本番へ臨む県勢を紹介する。 最終予選決意のアピール 「自分はいつでも準備はできています」 北京を懸けたバレーボール男子世界最終予選第2戦(6月・東京)のイラン戦後。それまで2番手セッターに甘んじてきた朝長孝介は、植田辰哉監督に出場を直訴した。選手人生で初めてした言葉でのアピール。これが、きっかけになったのかは分からない。だが、朝長がスタメン入りした第4戦以降、日本は快進撃。オーストラリア、アルゼンチンの強豪を連破し、16年ぶりの五輪出場切符を獲得した。 小学3年でバレーボールを始めた。父、政義が「そんなに運動能力は高くなかった。控えめだった」と当時を振り返るように、際立って目立つような存在ではなかった。だが、今も変わらない不断の努力と研究熱心さで一歩一歩成長。中学3年で県選抜入りすると、大村工で主将、筑波大では副主将を務めた。 本格的にセッターを始めたのは高校2年の夏。当時の大村工は大型選手がそろっており、朝長はアタッカーとして3、4番手の選手だった。ここで、恩師と慕う伊藤孝浩監督が言った。「アタッカーだと試合に出られないぞ。セッターをやってみろ」。エースとして活躍したかったが、やはり試合には出たい。「やらせてください」。将来の全日本の司令塔が誕生した瞬間だった。
先月の最終予選でも、豊富な練習量に裏付けられたプレーが、チームに勢いをつけた。恩師の伊藤が「人柄がにじみ出ている」と評するトスワークがさえた。派手さはないが、センター攻撃を中心にアタッカーの力を引き出す。北京出場を決めたアルゼンチン戦のマッチポイント。朝長のトスを相手コートにたたきつけた主将の荻野正二が言った。「あいつはコンビが合わなくても絶対にアタッカーのせいにしない。だから、次は必ず決めなければという気持ちになる」 28歳で臨む五輪の舞台。選手人生の集大成と位置づけてコートに立つ。「でも、出るだけで満足する気はない。日本らしいバレー、朝長孝介らしいバレーでメダルを取りにいく」。北京のコートでも“人柄のトス”を上げ続けるつもりだ。 略歴/ともなが・こうすけ 松原小3年でバレーボールを始め、郡中3年で県選抜入り。大村工高3年時の神奈川国体で3位入賞した。筑波大では2年秋からレギュラー入り。全日本大学選手権を制し続け、3年連続ベストセッター賞を受賞した。現在は豊田合成トレフェルサを経て堺ブレイザーズに所属。好きな言葉は「七転八起」。184センチ、83キロ。大村市出身、27歳。 2008年7月18日長崎新聞掲載
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