大村・東彼は1区生野(SUMCO TECHXIV)、3区下村(鎮西学院高)が区間1位の力走で序盤を優位に展開。4−8区は伸び悩んだが、9区川崎(陸自大村)で再び先頭に立つと、11区延壽寺博(諫早高)から3連続区間賞をマーク。2位以下との差を広げ、トップでゴールした。 長崎はスタートから2位で粘り強くリレー。4区安田(長崎国際大)が区間1位でトップを奪うと、5区山川(瓊浦高職)が区間1位の快走を見せ、2位との差を1分24秒まで広げた。後半も7区村山(長崎大)、10区三浦(城西大)の区間賞など区間上位でたすきをつなぐが、大村・東彼の勢いに及ばず3分29秒差で2位だった。 西彼・西海は2区野本(西彼杵高)が区間新をマークし2位。5区で4位に後退したが、10区川元(鶴南養護教)で3位に浮上し、そのままフィニッシュした。 佐世保は2区長深田(県立大)が区間新、4区田丸(同)が区間2位と活躍。5区鹿子島(長崎国際大)で3位に躍り出たが、6区以降、上位とのタイム差を短縮できず4位。五島、諫早による激しい5位争いは、初日に続いて離島勢トップをキープした五島が競り勝った。 初日に出遅れた北松・松浦は8区吉田(松浦高)の区間賞などで7位。島原半島は最終区で北松・松浦に抜かれ8位。初日最下位の壱岐は11区武田(壱岐高)が区間2位と踏ん張り9位。前半で最下位が続いた対馬は粘って10位。初日6位と健闘した平戸は11位だった。 最終日の18日は、午前7時45分に雲仙市小浜町をスタート。長崎市の長崎新聞社まで18区間131・5キロを走る。今大会から新設された小学生区間(12、13区)は、午後1時40分から県立総合運動公園陸上競技場で行われる。 エースの“たすき”次代へ 3連覇へ土橋力走
予定では、各チームの大黒柱が集う大会最長区間の第3日1区で出走予定だった。だが、初日の最終区で区間5位と沈んだ。9区で4位と活躍した1月の箱根駅伝のあと、大学4年間で初めて長期休暇を取った。「その後の調整ミス」。監督陣から10区に回された。「当然です。期待されて呼ばれたのに情けなかった」 この日も体は重かった。白い息を吐きながら、沿道で応援してくれる大勢の人を見て思った。陸上を始めたばかりのころ、西大村中時代、そして全国で勝負できるランナーになりたいと、福岡・大牟田高へ進んだこと。古里の記憶を刻み込むように、一歩一歩を踏みしめ走った。 10区のゴールテープを切り、再スタートを控えた11区延壽寺博(諫早高)に声を掛けた。県内トップ選手として活躍する延壽寺兄弟は今春、土橋と同じ日大に進む。次のエースへ、言葉でたすきをつなぎたかった。 11区。延壽寺博から始まる3区間連続区間賞が、大村・東彼の大会3連覇を大きく引き寄せた。(田下) 最後まで粘り強く 離島勢トップ五島
「離島チームだけに、合同練習もなかなか難しい。選手の調子を見抜けず、実力を発揮させられなかった」 今年はこれまで以上に選手とコミュニケーションを図った。直前参加となる県外の大学生には、小まめに連絡を取り、レースの成績や体調などをチェック。ベストの選手配置、設定タイムを練り上げた。 高校、大学生ら若手の力走に、田口主将(三井楽カイロ院)らベテランの意地が重なる。第2日は1区西村(五島高)が3位と好スタート。中盤以降も粘り強くつなぎ、最終13区で田口が諫早を逆転し、日間5位に食い込んだ。「どの区間も大きな崩れがなかった」と山本総監督も手応えを感じたという。 累計でも目標の6位で離島勢トップ。だが、「うちはあくまでも挑戦者」(田口)。タイム差はあるが、さらに上の順位を目指し、最終日もチーム一丸で5位諫早を追う。(緒方) 西彼・西海3位浮上 1分2秒差で最終決戦へ
第39回大会以来、17年間守り続けた3位以上の座。「西彼は悪くとも3位」が定説だった。それが今、合併で力をつけた佐世保に脅かされている。「若い僕にも監督陣の危機感がひしひしと伝わってきた」と2区野本(西彼杵高)は言う。 選手は目覚めた。野本が区間賞の走りで弾みをつければ、10区のベテラン川元(鶴南養護教)は佐世保を54秒も突き放し、3位に浮上。後続の走者も粘り、そのままゴールした。「1プラス1が2にも3にもなるのが西彼・西海のいいところ」。川元の目元が緩んだ。 3位は死守したが、佐世保との累計差はわずか1分2秒。「厳しい状況は変わらないが、振り出しに戻せた。一から戦える」。川田総監督は“最終決戦”のシナリオを描いている。(西) 連続出場のたすきつなぐ 平戸チーム発足に尽力の永田さん 第56回郡市対抗県下一周駅伝第2日の十七日、平戸桟橋前をスタートした選手は、今年架橋30年を迎える平戸大橋に差しかかった。雨と風が打ち付ける橋の上で、永田米吉さん(55)は選手の背中に叫んだ。「頑張れ!」。30年前を思い出し、目頭が熱くなった。 平戸は今回で連続30度目の出場。チームの歴史は橋の歴史と重なる。平戸の選手は第1回から26回まで、北松(現北松・松浦)に組み込まれていた。永田さんも選手の一人だったが、いつも「平戸単独で出場したい」と思っていた。 当時、平戸には好ランナーがそろっていた。「県下一周駅伝でも十分戦える」。永田さんは仲間とともにチームの独立を提案したが、周囲の反応は冷ややかだった。「選手集めをできるのか」「一年で終わるんじゃないか」。それでも粘り強く説得を続けた。 平戸大橋が完成した翌年の一九七八年、ようやく出場を認められた。永田さんは「大橋ができて機運が高まった。この橋に背中を押してもらった」と思う。自身は大会直前に体調を崩して出られなかったが、みんなの笑顔がうれしかった。 だが、順調な時期は続かなかった。過疎化による慢性的な選手不足で、何度も欠場の危機が訪れた。第46回は永田さんが総監督を務め、選手集めに奔走した。地元の中学、高校の出身者を名簿に入れるなど、当時は認められていない「ふるさと選手制度」も使った。どんなことがあっても、連続出場のたすきだけは、つなぎたかった。 現在、永田さんは後援会長としてチームを支えている。記念すべき今大会の初日は、過去最高の日間6位に入ったが、2日目で最下位に転落した。「多くの熱心な方々に支えられて幸せ。少しずつでも前進していければ」。永田さんは思う。 30年前−。真新しい「平戸」のゼッケンを着けて走る選手を、沿道で見詰める少年がいた。少年は必死に練習を積み、高校3年で、あこがれのたすきを手にした。現役引退後も、中、高校の陸上大会に足を運び「県下一周駅伝に出よう」と声を掛けて回った。それが、現在チームを率いる大山弘之総監督である。 |