清峰が創部50年目で初優勝。高校球児の夢舞台・甲子園の出場切符をつかんだ。県立の弱小校を屈指の強豪に育て上げた監督の吉田ら指導陣、ナインの軌跡をたどった。(文中敬称略)

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夢の始まり
  指導に飢えているだけ


 「優勝決定の瞬間、降り注ぐ歓喜の雨を浴びながら仲間と抱き合って泣きました。あの感動は一生忘れません。清峰生でよかった」。生徒会長の荒木めぐみ(3年)は感謝の言葉を贈った。

 25日、北松佐々町の清峰高で行われた野球部の優勝報告会。優勝メダルを胸に入場するナインを、在校生は大きな拍手で迎えた。「みんなの瞳が輝いている」。監督の吉田洸二(36)はそれを満足げに見詰めていた。

 旧産炭地は過疎化や高齢化が進み、地域の活力は低下していた。前身の「北松南高」は特別な進学校でなく、専門校色が強いわけでもない、どこにでもある県立校。定員割れが続いていた。炭鉱全盛時には九州大会に出場した野球部も、その面影はなかった。いつも1、2回戦敗退。指導者がおらず、公式試合のノッカーを生徒が務めた時期もあった。

 2001年春、吉田が監督に就任。雑草の生えたグラウンド、散乱したボールやバット、覇気のない練習―。吉田はあいさつの仕方、時間の厳守など技術以前の指導から始めねばならなかった。それでも部員はグラウンドには必ずやって来た。「野球は好きなはず。指導に飢えているだけだ」

清峰ナイン
在校生の拍手の中、優勝報告会に臨んだ清峰ナイン=北松佐々町、清峰高体育館
 当時のエースで四国アイランドリーグ・徳島インディゴソックスの松原祐樹(22)は言う。「反骨心のあるやつは怒鳴ったり、おだてられるとうれしいやつは褒めたり、めりはりが利いていた。この人ならついていけると思った。今も野球を続けていられるのは先生のおかげです」

 好機は意外に早く訪れた。学科改変に伴い2003年度から校名を「清峰」に改称。当時、校長だった川瀬長久(60)は思案した。「何かひとつのことに懸命になれる学校づくりはできないか」。そのひとつが部活動の活性化だった。諫早高、波佐見高など野球名門校に在籍経験のある川瀬は吉田に指示した。「まず野球部を強くしてくれ」

 吉田は勢いづいた。佐世保商高野球部時代の後輩、清水央彦(33)をコーチに招き、時間を見つけては小佐々や相浦など野球の強い地元中学を回った。「もう口八丁手八丁。野球への情熱、甲子園出場の計画をまくし立てた」(清水)。だが、素質のある選手が進むのは佐世保実や波佐見、佐世保工など甲子園出場校と相場は決まっていた。「大事な生徒をおたくには預けられませんよ」。一笑に付された。

2005年7月26日長崎新聞掲載