「県で優勝したこともないのに、まさか全国を舞台に戦うなんて夢にも思わなかった」。鶴鳴高(現長崎女子高)1年の時は控えだったが、2年の時に春野良三監督が同校に赴任。「地獄のトレーニング」(小林)が始まる。毎日約6キロの走り込みに加えてフットワーク20分と、まるで陸上部の練習だった。「盆、正月返上、年中無休のバドミントン漬け。楽しみにしていた修学旅行は辞退し、ひたすら練習の日々」。30人いた同級生が、最終学年ではわずか3人になっていた。 体力面が強化されると、次は技術面。男子高校生との練習試合や京都遠征など、武者修行を積む。「全国大会に出たこともない私たちが、強豪に全く引けを取らない」。小林を軸とした鶴鳴は、史上最強チームと呼ばれるまでになった。1971年の県高総体で、黄金期を築いていた長崎商高のV4に待ったをかけ、初の栄冠。優勝した瞬間は、「これで春野監督に怒られなくて済む」と思わず本音を漏らした。九州大会でも団体初Vを飾る。
だが、ベスト8を狙っていた個人戦で思わぬ波乱が生じた。「シャトルの材質が普段使う物より軽く、飛び過ぎてアウト。もう舞い上がってしまって」。ベースラインを深く攻めるパワースマッシュが生かせなかった。「コート上で、嫌というほど孤独感を味わった」。まさかの初戦敗退。団体3位の喜びは一瞬に消え去っていた。 それでも、大舞台に立てたことは自信になった。卒業後も実業団で活躍。今では一線を退いたが、バドミントンは「生活の一部。なくてはならないもの」となる。現在は、成年女子の指導者としてコートに立つ。全国レディース大会では、同じ舞台で戦った仲間たちと旧交を温めている。「インターハイは夢舞台だった」と力を込めた。
こばやし・たかこ 旧姓・小浜(こはま)。長崎中1年からバドミントンを始め、鶴鳴高(現・長崎女子高)3年で出場した1971年の四国ブロックインターハイ団体女子で3位入賞。三菱電機長崎に入社後は、全日本実業団選手権で団体2年連続5位入賞に貢献した。長崎市出身。49歳。
2003年4月25日長崎新聞掲載
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