インターハイ あのとき
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 自己管理の大切さ知る
 レスリング 宮原照彦(島原高教頭)

 レスリングのモントリオール五輪グレコローマンスタイル63キロ級4位の宮原は、意外にもインターハイで目立った成績を残していない。後にインカレと全日本選手権でそれぞれ3連覇を成し遂げているが、インターハイでは無冠だった。

 中学時代は柔道で県2位。島原工高1年で転向した。当時は2年後の1969年の長崎国体へ向けて強化が始まっており、入学前の春休みから強化練習に参加した。

 始めてわずか2カ月で出た県高総体個人戦は準決勝で敗れたが、その相手が全国3位入賞。「県で負けたときもだらしない試合ではなかったから、インターハイは射程距離にあるなと思った」

 インターハイは2、3年で出場。3年では世界ジュニア選手権(アメリカ)に日本代表として出場し、3位になった。その直後にあった群馬インターハイ。当然、優勝候補筆頭に挙げられた。だが、思わぬ落とし穴が待っていた。


長崎国体で攻める宮原
宮原照彦
1969年の長崎国体で攻める宮原(上)。インターハイ、国体での悔しさをバネに、世界にまで羽ばたいた 「ゆめ総体に巡り合えたことを宝としてとらえてほしい」と語る宮原照彦=島原市、島原高
 団体戦では一つ上の58キロ級で出場、全勝し、ベスト8入りに貢献。「55キロ級の個人戦もどうってことないだろう」という気持ちがあったが、帰国したばかりで減量がうまくいかず、計量オーバー。マットに立つことさえできない“負け”だった。「油断があった。やるせないというより、取り返しのつかないことをした。ルールの厳しさ、自己管理の大切さが初めて分かった」と悔しい思い出が残った。

 続く長崎国体は準決勝で引き分け、当時のルールにより、体重差で敗れた。苦い経験が続いたが、これが人生を変えた。「夏休みに就職が決まっていたが、インターハイで計量オーバー、国体でも負けて、自分はこんなものじゃないと思って大学に行った。そして今がある」。選手、人間として大きく成長するきっかけとなった。

 良い思い出ばかりではないが、今でもあの時のことはよみがえる。「負けたことは、永遠の宝物。暑くなってくると、インターハイが来たなと思う」


ゆめ総体に期待
 地元大会を名誉に
 地元で戦えるのは最高の名誉。ゆめ総体に巡り合えたことを宝としてとらえ、仲間、自分、先生を信じて、最高のパフォーマンスを見せてほしい。ゆめ総体に出た中から、次代の選手を育てるようないい選手が育ってほしい。

 みやはら・てるひこ 島原工高3年時に世界ジュニア選手権で3位入賞。1974年から全日本選手権3連覇。鹿町工高教諭だった76年のモントリオール五輪グレコローマンスタイル63キロ級で4位に入った。現在島原高教頭。南高南有馬町出身。51歳
2003年4月23日長崎新聞掲載

長崎ゆめ総体