インターハイ あのとき
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 誇りと同時に心残り
 陸上 田端健児(ミズノ)

 「上五島高校に入学したころは、インターハイなんて遠い存在。まさか出られるなんて思ってもいなかった」。そんな離島の少年だった田端健児だが、指導者にも恵まれて約2年間で急成長。3年の夏、1992年の宮崎インターハイ陸上男子四百メートルで、一気に全国2位まで駆け上がった。

 高校2年の秋、全九州新人大会を制してから、初めてインターハイを意識するようになった。大見得を切るような性格ではないため、「ひょっとしたら出られるんじゃないかな…」という程度だったが、田端の脳裏に全国の大舞台で走る自分の姿が見えてきた。

 それでも、高校2年まではインターハイとは無縁。高校3年の夏が自身初の全国大会だったため、「やっぱり雰囲気にのまれたのかもしれない」。総合開会式で、本県選手団の旗手も務めたが「旗手は緊張しなかった。それより試合のことで頭がいっぱいだった」

2位でゴールする田端
田端健児
1992年の宮崎インターハイ陸上男子400メートル決勝。2位でゴールする田端=宮崎県総合運動公園陸上競技場 インターハイの2位は「誇りであると同時に心残りもある」と語る田端健児(ミズノ)=東京、日大文理学部グラウンド
 実際に予選、準決勝は「ぎりぎりでの通過だった。体調も悪かったし、何か乗れなかった」。だが、決勝レースが近づくにつれ、いい意味で「開き直り」が出てきた。「ランキング1位での出場だったけれど、自分としては“決勝に残れればいいや”ぐらいの考えだった。だから、当初の目標は達成したかなと」

 この気持ちの切り替えが功を奏した。得意の終盤の追い上げで、1位と0・26秒差の2位でフィニッシュ。離島のハンディをはねのけた価値ある銀メダルだった。

 ただし、今、当時を振り返ってみると「やっぱりもったいなかった」。大学、社会人で日本タイトルを獲得してきただけに「あれを取っていたら全部取ったことになっていたのに…」。誇りであると同時に、心残りにもなっていると言う。

 「でも、あの夏のインターハイは僕にとって特別なもの。あれがなかったら今の僕はない。五輪なんて夢のまた夢だったでしょうね」


ゆめ総体に期待
 一つでも上の順位を
 地元開催はうらやましいですね。僕は島出身だから、県大会でも応援がなかったから…。やっぱり、走っている姿を島の友人たちに見せたかったです。インターハイには、一人でも多く出場して、一つでも上の順位でゴールしてほしいです。

 たばた・けんじ 有川中から陸上を始め、上五島高2年秋から四百メートルに専門種目を変更。3年の宮崎インターハイで2位、山形国体で優勝した。日大―ミズノと進み、千六百メートルリレーのメンバーとしてアトランタ、シドニー五輪に出場。有川町出身、28歳。

2003年4月20日長崎新聞掲載

長崎ゆめ総体