インターハイ あのとき
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 インターハイ(全国高校総合体育大会)の舞台に立つことは、高校スポーツに携わる監督、選手共通の夢であり、選手たちはそこで活躍することで、その後の進路、人生が大きく変わることもある。長崎ゆめ総体の開幕まで残り100日。過去のインターハイで栄光、挫折を体験した本県出身者たちに、若さの限りをぶつけ、自身の岐路となった「あの時」を振り返ってもらった。

 何物にも替え難い財産
 バスケット 浜口典子(ジャパンエナジー)

 1991年の静岡インターハイ・バスケットボール女子に、鶴鳴(現・長崎女子)高のエースとして出場。19年ぶり2度目の日本一に貢献した。「自分自身に“勝てるんだ”いう意識はなかったが、故障者もなく、みんな調子が良かった。何よりも監督、選手の間に百パーセントの信頼があった結果だと思います」

 当時の鶴鳴は、浜口と松山ゆかり主将の2枚看板を筆頭に好選手ぞろいだった。当然、山崎純男監督の狙いは全国制覇。だが、浜口、松山らが1、2年生時のインターハイは、2年連続初戦敗退。浜口が「日本一を目指すというより、山崎先生に怒られるのが怖くてやっていた」と述懐するように、このころまでの選手たちに「勝利への欲望」は少なかった。

ジャンプシュートを決める浜口
浜口典子
1991年の静岡インターハイ女子バスケットボール決勝、鶴鳴―名古屋短大付。ジャンプシュートを決める浜口=静岡県浜松市、浜松アリーナ
高校3年の夏は「何物にも替え難い財産」と語る浜口典子=東京、国立スポーツ科学センター
 だが、最上級生で迎えた最後の夏は異質だった。浜口、松山とも、どちらかといえばおとなしい性格で、闘志を前面に出すタイプではなかったが、浜口は「言葉では言い表せないが、勢いとか運とかを含めて何か“雰囲気”があった」。「絶対に勝つ」ではなく、3年生たちには「やらなければいけない」という責任感があった。

 優勝を決めた瞬間、浜口の本音は「恥ずかしいけれど、これで怒られないで済んだ」というものだった。ただ、松山がテレビのインタビューに答えた「これで長崎に帰れます」という言葉には心を打たれた。「キャプテンは大変なものを背負っていたんだな、勝てて本当に良かったと実感したのを覚えている」

 現在、浜口は日本代表の不動のセンターとして、2度目の五輪出場を目指している。当然、WJBLなどで数々のビッグタイトルを獲得しているが、やはり高校3年の夏だけは「何物にも替え難い財産」だと言う。「あの夏の出来事は、絶対に私を裏切らない“親友”みたいなもの。山崎先生、仲間たち…。今、つらいことや苦しいことがあっても、あれを思い出せばやっていけますね」

ゆめ総体に期待
 一つ一つに集中を
 やっぱり後輩たちには勝ってほしいけれど、それよりも目の前の一つ一つに集中することが大切だと思います。地元なので、応援のプレッシャーが大きくて集中しにくいかもしれませんが、それをエネルギーに変えて頑張ってください。

 はまぐち・のりこ 長崎市立深堀小4年からバスケットボールを始め、鶴鳴(現・長崎女子)高3年の静岡インターハイで全国制覇。在学中、史上4人目となる高校生全日本選手に選ばれた。96年のアトランタ五輪出場。昨季までWリーグ3連覇。長崎市出身、29歳。

2003年4月19日長崎新聞掲載

長崎ゆめ総体